世界最古の皇統とされる日本の天皇家

画像 : 『神武天皇東征之図』 八咫烏に導かれる神武天皇 public domain
日本の王家である天皇家ほど、世界的な見地から見て摩訶不思議な皇統はないだろう。
史実的には、6世紀(501年頃)から現在に至るまで、1,500年以上にわたって同じ血筋の天皇が連綿と続いている。
また、第二次世界大戦、すなわち太平洋戦争の敗戦を経てもなお、「国民の象徴」として存続していることも特筆すべき点である。
さらに、実在が疑問視されている初代・神武天皇からの皇統を含めれば、その歴史はなんと2,700年にも及ぶ、途方もない長さとなる。
このような天皇家に対しては、1998年版までの『ギネスブック』にも「天皇家は紀元前から続く、現存する最古の王家である」と記されていた(2000年以降の掲載はなし)。
それほどに、日本の天皇家は世界最古の皇統として広く知られているのである。
4つの皇統に分けられる天皇家の系譜

画像 : 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「崇神天皇」public domain
本稿の主題である「天皇という称号」「日本という国号」が、いつから使われたのかを述べる前に、まずは天皇の系譜について触れておきたい。
『古事記』や『日本書紀』によれば、初代・神武天皇から今上天皇に至るまで、歴代天皇は126代を数える。
もっとも、この皇統が一貫した血筋で継承されてきたかという点については、現代の学説では否定的な見解が主流である。
では、この皇統はどのように分かれるのだろうか。
これについてはさまざまな説があるが、ここでは筆者の見解を述べることとする。
先ず、初代神武天皇および、2代綏靖天皇から9代開化天皇までの、いわゆる「闕史八代(けっしはちだい 欠史八代)」の天皇については、神話上の存在であり、実在しなかったと考えるのが一般的である。

画像 : 応神天皇と近侍の武内宿禰を描いた絵 public domain
実在した最初の天皇とされるのは第10代崇神天皇であり、彼に始まる王朝は、第14代仲哀天皇をもって一度断絶する。
これが、いわゆる三輪(崇神)王朝である。
その後に登場するのが第15代応神天皇であり、この系統は第25代武烈天皇をもって終焉を迎える。
この応神王朝には、いわゆる「倭の五王」が含まれている。
そして、現在の皇統へと繋がるとされるのが第26代継体天皇であり、これがいわゆる王朝交代説である。
このように整理すると、天皇家の系譜は、神話上の「神武・闕史八代」、崇神を始祖とする「崇神王朝」、応神を始祖とする「応神王朝」、継体を始祖とする「継体王朝」の4つの皇統に分けられることになる。

画像 : 継体天皇 wiki ©立花左近
ただし、ここで注意しておきたいのは、今後の考古学的発見によって、これら各王朝の間に血縁的な繋がりが実証される可能性があるという点である。
たとえば、崇神王朝と応神王朝の間には、神功皇后の存在がある。
彼女は、『古事記』や『日本書紀』における記述から、第14代仲哀天皇の正妃であり、第15代応神天皇の母とされているが、これまでは伝説上の人物と見なされてきた。

画像:冕冠をかぶる神功皇后 public domain
しかし、葛城氏(神功皇后の母は葛城高顙媛)と関係が深いとされる奈良県磯城郡にある島の山古墳の発掘により、多量の石製腕飾類が発見されたことから、神功皇后の実在性に注目が集まり、議論の対象となっている。
同様に、邪馬台国と崇神天皇との関係、あるいは応神王朝と継体天皇との繋がりについても、今後の研究や発掘成果によっては再検討される可能性がある。
「天皇」「日本」が定着したのは天武朝以降

画像:纏向古墳群の盟主墓であり日本初の大王墓とも考えられる箸墓古墳(はしはかこふん)。(撮影:高野晃彰)
さて、ここからは「天皇」「日本」という名称が、いつ頃から使われるようになったのかについて説明しよう。
4世紀初め、畿内で生まれた首長勢力は、5~6世紀にかけて次第に勢力を拡大し、北九州や各地の首長(王)たちとの対立を経て、列島の広範囲にその影響力を及ぼすようになった。
畿内の首長は、列島各地の首長(王)たちの頂点に立つ存在として、「大王(だいおう・おおきみ)」と称されるようになる。
この動きと並行して、国家としての形成も進み、やがて日本は中国大陸や朝鮮半島の国家から「倭国」と呼ばれるようになった。
つまり、ここで雄略天皇などの「倭の大王」が成立したのである。

画像 : 雄略天皇。『御歴代百廿一天皇御尊影』public domain
そして、このような国家形成がさらに進む過程で、「日本」および「天皇」という名称が次第に定着していくことになる。
その時期については、「天皇」という称号が文献上に初めて登場するのが、第33代推古天皇の時代であることから、彼女の代以降に成立したとする説が、これまで有力とされてきた。
ただし、これは後世の史書における遡及的な用法である可能性もあり、実際に当時から制度として称号が定着していたとは言い難い。
「天皇」という称号が政権内部で一貫して用いられ、政治制度の中に明確に位置づけられたのは、やはり7世紀後半、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定された、第40代天武天皇の時代からであると考えてよいだろう。

画像:天武天皇 public domain
また、8世紀初頭に大宝律令が施行された際、唐に派遣された遣唐使が自らを「日本」の使節と称していることから、「日本」という国号も天武朝(7世紀後半)に成立し、「天皇」という称号とセットで使用され始めたと見るべきである。
これは、まだまだ未発達であった倭の社会に、高度な文明を誇る中国の律令制が導入されたことによる主要な成果であり、この時期をもって「日本」および「天皇」という概念が確立されたといえるだろう。
おわりに
「天皇」および「日本」という称号・国号が、7世紀後半の天武天皇の時代以降に定着したものであるとすれば、それ以前の支配者は「大王」と称され、国名も「倭」であったということになる。
にもかかわらず、私たちは現在、教科書をはじめさまざまな場面で、「天皇」「日本」という言葉を無自覚に使用している。
しかし、天武朝以前の王権には「天皇」や「日本」といった国家的な概念はまだ存在しておらず、制度的にも文化的にも、それらは未成立だったと見るべきである。
たとえば、天智や推古、継体といった支配者は、後の基準から「天皇」と呼ばれてはいるものの、実際には「大王」として倭国を統治していたにすぎない。
歴史をより丁寧に見つめ直すためには、こうした視点に立ち返ることが、有効な手がかりになるのではないだろうか。
※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』ちくま学芸文庫
小笠原好彦著 『奈良の古代遺跡』吉川弘文館
上田正昭著 『大和朝廷』講談社学術文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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