陣形は、古代中国で生まれた八陣が最も有名で、孫子や諸葛孔明が用いたという伝承があるが、実は本当に戦に用いていたかは不明であり、戦術なのか要塞群の配置なのかすら明らかではない。
日本に陣形の概念が伝わったのは奈良~平安時代とされ、吉備真備が「諸葛孔明の八陣」として日本に伝えたという説や、平安時代に大江維時が広めたという説もある。
いずれにせよ本国の中国でさえ実態が不明だった八陣が日本人に正確に理解できるはずもなく、日本では見様見真似の陣形らしきもの(集まれ、広がれと指示する程度のもの)しか存在しなかったとされている。
日本の地形では陣形は必要なかった
そもそも日本の国土の大半は山岳地帯で、中国大陸や欧州のように広大な平地が存在しない。
つまり平野での大規模な軍勢同士の戦いというのは実現しにくい上に、武士は領主別編成であったため兵種もバラバラで、兵種別編成すらされていなかった(武田、上杉、北条氏あたりからようやく兵種別編成が固定化された)
最も古い記録は飛鳥時代の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい : 日本・百済連合軍vs唐・新羅連合軍)に敗北した際に、今後の大陸からの侵攻に備え、天武天皇が12年(683年)に「諸国習陣法」の詔を発したとされているが、その後、海外からの侵略はなかった。
そこで国内の主に東北で勢力を誇っていた蝦夷(えみし)討伐で陣形らしきものを用いたが、神出鬼没な散兵で戦う蝦夷には全く歯が立たなかった。
平安時代の源平合戦においても、平氏は陣形を意識した戦術をとったが、中小の独立部隊でバラバラで戦う源氏に敗北した。
その後の鎌倉幕府でも陣形を使った記録はなく、日本の山だらけの地形や軍団システムにおいては、陣形はほとんど役に立たないというのが現実であった。
村上義清が生み出した兵種別編隊が最強だった
戦国時代において唯一中国の陣形を見よう見まねで試してみたのが武田信玄と山本勘助である。
ただし勘助の八陣は実際に大陸から学んだわけでもなく、様々な文献から独自に生み出したものであった。
結果的には村上義清にボコボコにやられ武田軍は大敗。信玄自身も傷を負い、八陣の有用性は全くなかったことの証明になってしまった。
それどころか追い詰められた村上義清が生み出した「兵種別編隊」の有用性が証明され、その後、上杉、北条、武田と東国から西国まで波及し、豊臣政権の朝鮮戦争にも使用されたのである。
兵種別編隊とは陣形ではなく、文字通り兵種ごとに編成するというもの。
村上義清の兵種別編成は「鉄砲百・弓百・長手鑓百・総旗・騎馬百」で「五段隊形」とし、旗本の下に兵種ごとに一定数の兵を揃えて組み合わせて運用する方法であり、順序はその時々で臨機応変に対応させた。
その後、村上義清は上杉謙信の家臣となり、「五段陣形」は上杉軍でも基本隊形となったのである。
こうした兵種編成は、現代の我々からするとゲームなどで当たり前の概念のように思えるが、日本においては中世からようやく使われだしたのである。
それまでは小領主が自分の一族郎党を率いた小集団の集まりが軍であり、兵種もそれぞれバラバラだったのである。
通説では、川中島や三方ヶ原、関ヶ原の戦いで「鶴翼の陣や魚鱗の陣、車懸りの陣」などが使用されたとされているが、そもそも古代中国の陣形を「こういったものがあったらしい」程度にしか知らない当時の日本人が正しく使えるはずもなく、虚構という説が濃厚である。
最後に
「陣形」は日本において古来から知識としては知られていたが、正しく伝来はしていなかった。そもそも本国の中国でさえ実態が不明であった。
古代における蝦夷との戦いや、中世の武田信玄などが見よう見まねで試したものの、成果は上がらなかった。
日本の地形の大半は山岳地帯であり、中国や欧州のように大規模軍同士の戦いができる広大な平野がほとんどなく、「陣形」が発展する土壌ではなかったのである。
日本においては陣形よりも、軍の士気や個人的な武力、機を見て戦う散兵によるゲリラ戦の方が強かったのである。
参考文献 : 戦国の陣形
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