日本には江戸時代までに建造され、今も残っている天守が12城存在しています。
今回は、その中でも最古の天守で国宝に指定されている5天守の一つ、犬山城について解説いたします。
犬山城とは
犬山城は、尾張国と美濃国の堺にあり木曽川沿いに築かれた平山城です。(所在地 : 愛知県犬山市犬山北古券65-2)
高さ約88メートルの丘の上にあり、別名「白帝城」といいます。
中国の長江流域の丘の上に建つ白帝城を詠った「早發白帝城」という李白の詩にその姿を重ねて呼ばれるようになったと伝えられ、この別名を付けたのは江戸時代の儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)だと言われています。
この場所には岩倉織田氏の砦があり、それを織田信長の叔父にあたる織田信康が改修し、その後は信長の乳兄弟で家臣の池田恒興や、豊臣政権時には石川貞清が入城しました。
小牧・長久手の戦い(1584年)や、関ヶ原の戦い(1600年)では、西軍の重要な拠点が置かれました。
3層4階地下2階の複合式望楼型天守で、2004年までは個人所有の天守としても有名でした。
現在は「財団法人 犬山城白帝文庫」の所有となっています。
歴史が変わった犬山城天守
歴史が変わったと書きましたが、今まで犬山城の天守は1537年に織田信長の叔父・信康が自身の居城である木之下城からこの地へ移り、1階2階部分が築造され、その後に3階4階部分が増築されたと考えられていました。
しかしこの度「年輪年代法」という年代測定調査が行われ、天守が創建された年代が科学的に解明されたのです。
この調査は名古屋工大大学院の麓和善教授(建築史)と、年輪年代測定で高名な奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員が犬山市教育委員会から依頼を受けて行ったもので、「柱や梁の伐採時期から1585年から1590年頃の築城であり、現存天守の中で最古の建造である」ということが証明されました。
1~2階の樹皮が残るヒノキの柱は1585年に伐採された木材であり、4階部分の床を支えているヒノキの梁は1588年に伐採された木材であることが判明しました。他にも4階部分の床板などが1585年から1588年の木材だと推定されました。
さらに木材の加工はこの時代の特徴的な加工の痕跡が残されており、1585年以降に1階から4階までが一気に建造されたとみられることがわかりました。
1582年に本能寺の変が起こり、その後尾張国は織田信長の次男・信雄が領有し、犬山城には信雄の配下である中川定成が入城したと言われています。
その後、1584年には小牧・長久手の戦いで信雄方につくと思われた池田恒興が伊勢に援軍を出し、手薄になっている犬山城へ奇襲をかけ奪取していることから、犬山城の天守が建造開始されたと推定されている1585年頃(1階2階の柱の伐採時期)は、豊臣方が入城していたことになります。
1587年に信雄に返還されているとすると、4階の床板を支えている梁の伐採年代が1588年と推定されることから、4階部分が建造されている時には信雄が犬山城にいたことになります。
ちなみに3階の床を支えている梁の部分の伐採時期は1588年と推定されているので、3階4階部分は信雄の時代に建造され、1階2階部分は豊臣方の時代に建造されていたことが想像できます。
また最上階は「真壁造り」という造りになっています。
これは柱や桁がむき出しになっているもので、建物の外壁としては珍しく寺院でよく見られる造りです。
また北と南につけられている「花頭窓」も寺院で多くみられる窓で、真壁造・花頭窓どちらも格式が高い建築様式です。
終わりに
日本に現存している12天守の中で、国宝に指定されている天守は5天守です。その中でも最も古い天守がこの犬山城になります。
柱や梁の伐採時期から天守が建造された年代がはっきりとしたわけですが、小牧長久手の戦いなどにより建造中に城主が代わってしまうなど、まだまだ築城にまつわる謎が残っています。
この先の研究の成果や歴史的資料の発見などで、さらに当時の様子を知ることができる日は来るのでしょうか。
この記事へのコメントはありません。