現在、神社の数は、全国でおよそ8万8,000社以上に上るといわれる。
これは、日本人の多くが信仰する仏教系の寺院よりも数が多い。神社、強いては神道というものが、いかに日本人に親しまれ、その根底に流れる精神性が浸透しているかが分かるであろう。
その中で、なぜ「伊勢神宮」が、日本の全ての神社の最高格とされ、日本国民の総氏神と称されるのか。
今回は、その理由について考えてみた。
神道と天皇崇拝の国家理念を掲げた「王政復古の大号令」
1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に政権返上を申し出る大政奉還を行った。
これは、薩摩藩の西郷隆盛・公家の岩倉具視らが、徳川慶喜らを武力で倒す倒幕運動の実施を読み切った上で、その企てを無力にする奇策だった。
この大政奉還の対抗策として、12月9日、岩倉らは明治天皇の名において「王政復古の大号令」を布告した。この時点で、新政府が樹立され明治維新が始まった。
この号令は、「神武創業」に基づく政治改革を意味した。すなわち明治天皇をして神武天皇の再来と位置付け、超古代に神武が行ったとされる祭政一致を、近代に蘇らせることにしたものだ。
つまり、日本古来の宗教であった「神道」を国教として、天皇を崇拝するという国家理念を打ち出したのである。
そのためには、奈良時代以降行われていた神仏習合を廃止し、神道を仏教の影響を受ける前の姿に戻す必要があったのだ。
伊勢神宮は明治維新において神社の最高位に再編された
王政復古の大号令の翌年、明治新政府は、神道国教化のための具体的な政策を開始した。
それが神祇官の復活だった。神祇官とは、古代の律令制において朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄した。養老令によると、神祇官は、行政機関である太政官よりも上位であり、諸官の最上位と位置付けられている。しかし、応仁の乱を境に、この官はほぼ廃絶していたのだ。
復活した神祇官は、すぐさまその機能を発揮した。同官の主導により「神道=神社」を国家の宗祀とすべく、新たな社会制度が整えられた。
それは全国の神社を『延喜式』を例にして、官幣大社・官幣中社・官幣小社・別格官幣社・国幣大社・国幣中社・国幣小社・府社・県社・村社・小社(無格社)に分類することだった。
こうした中で、天皇の祖先=皇祖神を祀る「伊勢神宮」だけは社各を超越した神社とされ、全ての神社の最高位に「再編」されたのである。
そしてその過程の中で、悪名高き「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れた。
神道と仏教を切り離すために、明治政府が推進した神社を国家の宗祀とする運動が、極端な仏教弾圧に発展したのである。
廃仏毀釈は、日本全国で起こり、余りに多くの貴重な仏像や文化財が失われた。
この記事では、廃仏毀釈の詳細を書くつもりはないが、その過激な事例として奈良・興福寺の話を紹介しよう。
現在、国内外から多くの観光客で賑わう興福寺だが、この時、事実上の廃寺となった。僧侶たちは還俗し、新宮司というカタチで春日大社の神職に転身した。
奈良公園のシンボル・五重塔は民間に25円で売却。誰もいなくなった興福寺は警察の屯所となり、警官たちは寒さを凌ぐため天平時代の仏像を火にくべて暖をとった。かの阿修羅像でさえ、庫裏の片隅に打ち捨てられていたのだ。
しかし、廃仏毀釈は数年でピークを過ぎる。それと同時に神道国教化政策は後退を余儀なくされた。極端なまでの祭政一致は、近代国家の理念と真っ向から対立するものであり、その実現は困難であった。
仏教・キリスト教を含む信教の自由を認めなければ、日本という国家が欧米列強からの理解を得ることは困難であった。
そうした流れで神祇官は、やがて神祇院に格下げされた。
律令の完成とともに超越した存在となった伊勢神宮
実は「伊勢神宮」は、古代において律令制が完成した時点で、その社格は頂点に定められていた。
しかし、律令制の崩壊とともに、それは曖昧なものになっていた。
ただ、神社の社格については『日本書紀』によれば、崇神天皇7年11月の条に「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)」を定めたと記されている。この記述をどう解釈するかは意見が分かれるところだ。
先ず、崇神天皇が君臨した年代をどう考えるかで、全く見解が異なってくる。
崇神が、最初のヤマト政権の大王だとすれば、その年代は3世紀末か4世紀初頭ということになるだろう。これは、こと社各制度という点からは、時代が早すぎるのではないだろうか。
律令制が整備されるのは、早くても7世紀後半の天武・持統朝からであろう。そして『日本書紀』には673年に、天武は娘の大伯皇女(おおくのひめみこ)を泊瀬に参篭させ心身を清めさせたうえで、その約1年半後に伊勢へ向かわせ、斎宮としている。
となると、この時点でどんな形態であれ「伊勢神宮」は存在していたことになる。ただ、『続日本紀』の698年・文武天皇の条に「多気の大神宮を渡会郡に遷す」という記述も見られ、これを内宮の遷宮と考えることもできる。
本格的な律令である大宝律令の制定が、701年なので『続日本紀』の記述の方がより律令の完成に近くなることから、現在見るような「伊勢神宮」は、この時期に完成したと考えるのが妥当なのではないだろうか。
そして、この時点で同神宮は、天武・持統朝を引継いだ文武により、全ての神社を超越した社格を与えられ、その頂点に立ったのだろう。
戦後に廃止された社格と、新たにできた神社本庁
太平洋戦争中、特に日本が敗色濃厚になると、神祇院は全国の神社に敵国撃滅祈願を訓令した。
しかしその甲斐もなく、1945年8月15日に日本が敗戦を迎えると、GHQは国家神道を軍国主義の元凶と見なし、神道・神社に対する措置の検討を開始した。
そして、同年12月「神道指令」を発し、神祇院の廃止はもとより、神社に対する国家支援・宗教的式典の廃止を決定した。この措置に、神社の頂点に立つ「伊勢神宮」が含まれていたのは言うまでもない。
しかし、一方で国家神道から切り離した神道・神社への信仰は「個人的宗教」というカタチで存続が認められた。
そうした動きの中で、生まれたのが宗教法人神社本庁だ。
同組織は「伊勢神宮」を本宗と仰ぎ、神道を宣布し、氏子・崇敬者の教化・育成を図ることを目的に、約8万社の神社を傘下に収めスタートした。
つまり、神社本庁は、国家とは全く関係を持たない一宗教法人となったのである。
では、一宗教法人に過ぎない「伊勢神宮」が、なぜ「日本人の総氏神」として教科書などに記載されるのか。
まず伊勢神宮は、天皇家の祖先神を祀る場として、国家的な象徴性を持つ存在であったため、「日本人の総氏神」としての地位が歴史的に築かれてきた背景がある。
しかし、近年、神道と政治との関わりが議論を呼んでいる。たとえば、2014年に神社本庁の参画のもとで設立された「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、憲法改正を目指す運動の一環として神社を活用する動きを見せた。この結果、一部の神社では憲法改正を訴える幟が立てられ、宗教と政治の関わりについて注目が集まった。
ただし、筆者は決して神道そのものを否定する意図はなく、むしろ神社に関する書籍を執筆するなど、神道文化に深く関わっている。また、「伊勢神宮」に対しても強い敬意を持ち、日本各地の神社参拝も欠かさない。
結論として、伊勢神宮が「日本人の総氏神」とされる理由には、歴史的・宗教的な背景に加え、近年の政治的な利用も一部影響していると言えるだろう。
とはいえ、伊勢神宮の特別な地位は長い歴史に基づくものである点を忘れてはならない。
※参考文献
新谷尚紀著 『神社に秘められた日本史の謎』宝島社刊 2024.9
招福探求巡拝の会著 『日本全国一の宮巡拝パーフェクトガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2024.7
文 / 高野晃彰
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