安土桃山時代

『関ヶ原最大の裏切り』小早川秀秋の寝返りは戦う前から決まっていた?

画像 : 小早川秀秋 public domain

関ヶ原の戦い」は、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した天下分け目の決戦である。

当初は西軍が有利とされていたが、戦況を一変させたのは小早川秀秋の寝返りであった。

彼はなぜ東軍に与し、西軍を裏切るに至ったのか。

また、彼の生涯とはどのようなものだったのか、掘り下げていきたい。

小早川秀秋とは何者か

画像:伝・小早川秀秋所用の猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織 wiki c 国立博物館所蔵品統合検索システム

小早川秀秋は、本能寺の変が起こった天正十年(1582年)に生まれた。

父は木下家定であり、母は杉原家次の娘である。父・家定は豊臣秀吉の正室・北政所(ねね/高台院)の兄にあたり、秀秋は秀吉の甥にあたる。幼い頃から北政所のもとで養育され、豊臣家の一員として育てられた。

秀吉には実子がいなかったため、甥である秀秋を養子とし、将来の有力な後継者候補として遇した。

天正十七年(1589年)、7歳で元服すると、丹波国亀山城10万石を与えられ、豊臣家の中でも特に優遇された存在となる。

しかし、文禄二年(1593年)に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、秀秋の立場は微妙なものとなった。

秀吉の家臣であった黒田孝高(官兵衛)は、小早川隆景に対し、「秀秋を毛利輝元の養子にしてはどうか」と提案した。
これを聞いた隆景は、毛利家の養子としてではなく、自らの小早川家の後継者として迎えたいと秀吉に申し出た。

その結果、秀秋は小早川家の養子となり、隆景の跡継ぎとなった。

小早川家と毛利家の関係とは

画像:毛利家の家紋 public domain

小早川家は、もともと安芸国の有力な戦国大名であったが、戦国時代後期には毛利氏の傘下に組み込まれていた。秀秋の養父となった小早川隆景は、毛利元就の三男であり、小早川家の当主として毛利家の勢力を支える役割を担っていた。

毛利元就は、自らの次男・吉川元春を吉川家の養子に、三男・小早川隆景を小早川家の養子に送り込み、この二家を毛利家の強力な支柱とした。

こうして形成された体制は「毛利両川」と呼ばれ、毛利氏本家を中心に三家が連携して毛利家を支える仕組みが確立された。

元就の逸話として有名な「三本の矢」の話(史実ではないが、毛利家の結束を象徴するものとして語り継がれている)も、この両川体制を示唆するものといえる。

しかし、隆景には実子がいなかったため、跡継ぎの問題が生じた。

画像:小早川隆景 public domain

このとき、前述したように黒田孝高(官兵衛)が「秀秋を毛利家の養子にしてはどうか」と提案した。
この提案の意図については、豊臣家の血縁者である秀秋を毛利家の後継者とすることで、毛利の弱体化を狙ったものと考えられる。

これを察した隆景は、「毛利家ではなく、自らの小早川家の後継者として迎えたい」と秀吉に申し出た。

その結果、文禄3年(1594)、秀秋は小早川家の養子となり、「小早川秀秋」と名乗ることになったのである。※正確には1597年の慶長の役(朝鮮出兵)在陣中、隆景の訃報を聞いた後に「秀俊→秀秋」と改名。

この養子縁組によって、秀秋は形式的には毛利家の一門に組み込まれたものの、実際には小早川家は秀秋の代で、毛利本家との関係が次第に希薄になっていった。

秀秋と秀吉の関係悪化

画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次 public domain

文禄四年(1595年)、秀吉の養子であった秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹を命じられた。

いわゆる「秀次事件」である。

この際、秀次の家臣や近臣の大名が多数処罰されたが、秀秋が直接の処罰対象であったという確証はない。しかし、同じ1595年に丹波亀山10万石を没収されており、何らかの影響を受けた可能性はある。

同年、小早川隆景が隠居し、その所領である筑前名島33万7000石を秀秋が継承することになった。これにより、一時的に失った領地をはるかに上回る石高を得ることになり、豊臣政権下でも引き続き重要な大名の一人として扱われた。

慶長二年(1597年)、養父の隆景が死去すると、秀秋は名実ともに小早川家の当主となる。

そして、その年に始まった慶長の役(朝鮮出兵)に出陣し、九州名護屋から朝鮮半島へ渡った。しかし、戦線における行動には不明な点が多く、秀吉からの命令を受けて日本へ帰国することになった。

帰国後、秀秋は突如として所領を没収され、越前北庄へ転封される。事実上の改易であり、多くの家臣を失い、没落の危機に直面することとなった。

秀秋の転封の理由は明確ではないが、当時の秀吉は蔚山城の戦い(1597年12月~1598年1月)を含め、多くの大名を厳しく処罰していた。秀秋の処分もこの流れの一環だった可能性がある。

しかし、慶長三年(1598年)、秀吉が死去すると、状況は一変する。

秀秋は筑前・筑後59万石を与えられ、大大名として復活を果たす。 これは豊臣政権内の五大老の連署によるものだったが、特に徳川家康の働きかけがあったとされている。

秀吉の死後、豊臣家内の勢力バランスが変化し、秀秋は再び重臣層として位置づけられることになったのだ。

関ヶ原の戦いでの行動

画像 : 関ヶ原合戦屏風 public domain

慶長五年(1600年)、石田三成が毛利輝元を擁立して挙兵し、関ヶ原の戦いが始まった。このとき、小早川秀秋は19歳であった。

三成らが挙兵し、徳川方と西軍の対立が本格化すると、秀秋には黒田長政・浅野幸長から「東軍に味方するように」との書状が届けられた。『※黒田長政・浅野幸長連書状』
東西双方からの説得を受けるなか、秀秋の去就は戦局を左右する重要な鍵となっていた。

関ヶ原本戦当日、秀秋は松尾山城に布陣していた。

画像 : 関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)小早川秀秋軍は左。public domain

有名な「問い鉄砲」の伝承では、なかなか動かない秀秋に業を煮やした家康が、催促として鉄砲を撃ち込ませたとされる。

しかし、一次史料にはそのような記録はなく、後世の軍記物による創作の可能性が高いとされている。

近年の研究では、秀秋は戦の前日までに東軍につく決断を固めていた可能性が高いことが指摘されている。
また、西軍陣営内でも、秀秋の動向を警戒する声が上がっていた。

関ヶ原本戦の当日、午前中は傍観を続けていた。 彼の軍が本格的に動いたのは、戦闘が進行した正午ごろであり、その時点で西軍の大谷吉継の陣に攻撃を仕掛けた。

これらの事実から、秀秋の寝返りは戦場での突発的なものではなく、事前に計画されていた可能性が高いと言えるだろう。

秀秋の軍勢が西軍の大谷吉継の陣に攻めかかると、西軍の崩壊が決定的となった。

この動きに呼応する形で、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らも西軍を離反し、結果として関ヶ原の戦いは東軍の大勝利に終わった。

西軍を裏切った理由は?

画像 : 小早川秀秋。落合芳幾「太平記拾遺 金吾中納言秀秋」 public domain

では、なぜ秀秋は西軍を裏切る決断をしたのだろうか。

一つの要因として、家康との関係が挙げられる。

前述したように秀秋は秀吉の死後、五大老の連署により筑前・筑後59万石を回復し、大大名として復活しているが、この際に家康の意向が強く働いていた可能性が高い。
また、家康の会津征伐に際しては使者を送り、東軍側として行動していたとされる。『※寛政重修諸家譜』
こうした経緯を踏まえると、秀秋は早い段階から家康に恩義を感じ、東軍に味方する意向を固めていたと考えられる。

次に、石田三成への不信感が挙げられる

かつての秀秋の越前転封(事実上の改易)の原因として、慶長の役での蔚山城の戦い(1597年~1598年)の影響が大きい。

画像 : 第一次蔚山城の戦い 蔚山籠城図屏風(断片) 福岡市立博物館所蔵 public domain

この戦いでは、籠城する加藤清正を他の大名たちが救援し、明・朝鮮連合軍を撃退したが、その後「戦い方に問題があった」と秀吉に報告したのが三成の家臣たちだったとされる。

その結果、秀吉が激怒し、関与した大名を厳しく処分しており、秀秋の転封もその一環であったとみられる。
こうした経緯から、秀秋が三成に対して強い不信感を抱いていた可能性は十分に考えられる。

さらに、東軍側の積極的な調略も大きな要因であろう。

黒田長政や浅野幸長は、秀秋の寝返りを確実にするために、東軍勝利後の恩賞や家康の影響力の強さをアピールしたはずである。
関ヶ原の前哨戦である伏見城攻めでは、秀秋は西軍として参加していたが、本心から従っていたわけではなく、東軍への内通を模索していたとも伝えられている。

こうした背景を考慮すると、関ヶ原本戦の前日にはすでに東軍側につく決断をしており「戦場での突然の裏切り」という従来のイメージとは異なる実像が浮かび上がる。

おわりに

画像:大谷刑部の祟りに怯える秀秋 月岡芳年 public domain

秀秋は関ヶ原の戦いのあと、論功行賞により旧宇喜多領の備前・美作・備中の東半部を加増され、岡山55万石を領した。

しかし2年後の慶長7年(1602年)、病により21歳で死去した。

その死については、「攻め入った大谷吉継の祟りによって命を落とした」とする伝承がある。
江戸時代の軍記物では、秀秋が亡霊に怯えて幻覚を見るようになり、恐怖のあまり命を落としたと語られている。

しかし実際のところ秀秋は、過度の飲酒による肝疾患を患い、健康を損ねていた。『医学天正記』には、黄疸の症状や消化器系の不調が記録されており、常軌を逸した酒量が死因となったとされる。

いずれにせよ、秀秋はわずか21年の短い生涯を終え、後世に「裏切り者」として語り継がれることとなった。

参考資料:寛政重修諸家譜、黒田長政・浅野幸長連書状、歴史道 他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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