戦国の乱世において、能登の畠山氏に仕えたのち、織田信長や前田利家のもとで数々の戦に身を投じた武将がいた。
その名は長 連龍(ちょう つらたつ)。
生涯で41回の合戦に参加して名を馳せた、不屈の戦士である。

画像:「太平記拾遺十五:長九郎左衛門連竜」 public domain
連龍は、その生涯のほとんどを戦に費やし、数々の勝利を手中に収めた猛将であるが、もともとは能登畠山氏配下の名門・長氏の三男として生まれた身で、20歳頃にはすでに出家していた。
臨済宗の僧侶として寺の住職となっていた連龍が、再び俗世に還り武将として戦いに身を投じていった理由は、一族を皆殺しにされた復讐を果たすためであった。
寝返ったかつての味方に一族郎党を惨殺された連龍は、無念にも浜辺に並べられた一族の首を見た時から、命をかけて復讐に燃える鬼と化したのだ。
その執念は凄まじく、新たに連龍の主君となった信長が諫めても、抑えがきかないほどであったという。
今回は、復讐に燃えた能登の猛将、長連龍の波乱に満ちた生涯に触れていこう。
能登畠山家家臣・長 続連の三男として誕生

画像:長谷部信連(月岡芳年画『高倉月』) public domain
長 連龍(ちょう つらたつ)は、1546年8月15日、能登国で生まれた。
父は能登畠山氏に仕え、穴水城の城主を務めていた重臣・長 続連(ちょう つぐつら)で、連龍はその三男である。
長氏はもともと鎌倉幕府の御家人・長谷部信連より始まった氏族であり、能登国最大の国人であったが、室町時代からは能登守護大名・畠山氏に従属していた。
そして1550年から翌年にかけて起きた内乱の末に、連龍の父・続連は、畠山七人衆の1人に名を連ねるようになった。
連龍が生まれる1年前に死去した、畠山氏第7代当主・畠山義総は、能登畠山氏を隆盛に導いた名君として知られている。
しかし、義総の死後に跡を継いだ畠山義続は、家臣団をうまくまとめることができなかった。
その結果、家臣団同士の勢力争いが度々起こり、畠山家の権力は失墜して、政治的実権は有力家臣団である畠山七人衆が握るようになっていったのだ。
このように畠山家は、家臣団の権力闘争が続き、長らく不安定な状態であった。
青年期には既に出家していた連龍も、自らが住職を務めていた寺の名から取って「孝恩寺」と名乗り、たびたび戦場に出ていたという。
軍神・上杉謙信による侵攻

画像:上杉謙信 public domain
内輪揉めを繰り返していた能登の情勢が大きく動き始めたのは、畠山義続・義綱父子が能登から追放され、続いて畠山家当主となった義慶や義隆の死没後、まだ幼い春王丸が畠山家当主に据えられた時期からだ。
この頃すでに畠山七人衆は解体されていたが、長氏は春王丸の後見として能登畠山氏を主導する立場となっていた。
当時の畠山家臣団の中で長氏は親織田派の筆頭であり、一大勢力となっていた織田信長と親交を持つことにより、家臣団内での優位性を保っていたといわれる。
ところが1576年になると、信長と同盟を組んでいたはずの上杉謙信が、信長と敵対して能登に向けて侵攻を開始したのである。
1577年、長氏の居城である穴水城が上杉軍の侵攻を受けた際には、連龍は僧衣のまま水軍を率いて上杉軍を迎撃し、乙ヶ崎合戦で活躍して70もの首級を挙げたという。

画像:七尾城跡入口 wiki cc
その後、北条氏政討伐のために一度越後に帰国した上杉軍の再侵攻が始まると、父・続連らは他城の包囲を解除して、領内の農民や町人を含む全兵力を集めて、畠山家の居城である七尾城に籠城し始めた。
しかし、あまりの人数の多さにし尿処理が追い付かず、不衛生な状態になった七尾城内では、まもなく疫病が流行り始めた。
そして、あろうことか畠山家当主・春王丸までもが疫病にかかり、病死してしまったのである。
七尾城を守る兵の士気は、幼き当主の死により大いに下がってしまった。
この窮地を打開するために、連龍は長氏の代表として織田氏への援軍要請に向かうよう命じられ、海路で安土へと向かうことになる。
連龍が織田の援軍を率いて戻るまでの間、父・続連と兄・綱連は一揆勢を扇動するなどの策を講じ、なんとか持ちこたえようと必死に抵抗を続けた。
しかし、春王丸の死から2カ月も経たない9月頃には、堅城と名高い七尾城も、ついに落城は避けられない状況に追い込まれていた。
そんな中、畠山家の重臣でありながら、かねてより上杉方と通じていた遊佐盛光が寝返り、温井景隆・三宅長盛兄弟らと共に謀って七尾城の城門を開き、上杉軍を城内に引き入れてしまった。

画像:九月十三夜月(後の月)public domain
そして、謙信が月見の宴で『九月十三夜陣中作』を詠んだとされる日から2日後、1577年9月15日。その時が、ついに訪れた。
七尾城にいた長一族は、乳母に抱かれて逃れた綱連の末子を除き、元服前の子供たちまでも含め、およそ100名が殺害されるか自害し、七尾城は上杉軍の手に落ちてしまったのである。
連龍が能登に戻ってきたその時には、すでに一族の首が倉部浜(現・石川県白山市倉部町)に晒されていたという。
織田の援軍は、一向一揆との戦いや、勝家と意見を違えた羽柴秀吉の離脱などもあって足並みが乱れ、遅れて出陣した。
七尾城がすでに陥落していたことを知ったのは、9月23日のことである。
その夜、撤退を決めた柴田勝家率いる織田軍は、手取川で上杉軍の追撃を受け、多くの戦死者や溺死者を出して大敗を喫した。
織田信長の家臣となり、仇敵・遊佐盛光を討つ

画像:七尾城址(桜馬場石垣) public domain
能登を離れている間に一族を皆殺しにされた連龍は、主家である畠山氏も滅亡していたため、織田信長に仕えることになる。
味方を裏切り長氏を滅亡寸前にまで追い込んだ遊佐や温井、三宅に対する復讐を誓った連龍は、信長のもとでその期を待つことにしたのだ。
1578年4月、一族の仇への復讐に燃える連龍に、思わぬ幸運が舞い込んだ。
憎き裏切り者たちを庇護する軍神・上杉謙信が、病のために急死したのである。
同年8月、連龍は自ら兵を集めて穴水城を奪還し、七尾城代であった上杉家臣・鰺坂長実、織田方の神保氏張らと一時的に協力関係を築き、能登や越中を舞台に仇敵・遊佐や温井らとの戦いを繰り返した。
1579年、遊佐と温井によって鰺坂が七尾城を追放された後には、連龍は柴田勝家に近付いて、前田利家や佐久間盛政らの協力を得て仇敵・遊佐盛光に勝利し、盛光は弟もろとも殺害される。
盛光ら遊佐氏殺害の経緯については、連龍との戦いの後、降伏したものの信長の命により処刑されたという説や、七尾城から逃亡し潜伏中のところを連龍に見つかって殺されたという説がある。
前田利家に仕えて念願の復讐を遂げる

画像 : 前田利家 public domain
念願かなって遊佐に対する復讐を果たした連龍は、その後、前田利家の与力となる。
降伏した温井・三宅とは和睦を結ぶように信長に命じられたが、それに対しては激しく難色を示した。
連龍の中では信長に対する恐れよりも、仇に対する憎悪と復讐心の方が勝っていたのだ。
信長は連龍になんとか矛を収めさせるために、鹿島半群を所領として安堵した。
信長直々に諫められて一度は引いた連龍だったが、卑劣な手段で一族を皆殺しにされた憎しみは消えなかった。
本能寺の変後、連龍は前田利家の家臣となり、前田家を軍政両面で支えて全幅の信頼を置かれる存在となっていく。
連龍の仇敵である温井と三宅は、信長の死後に能登奪還を目指して利家と敵対したが、彼らの運はそこで尽きた。
前田・佐久間軍とともに連龍も参陣した荒山合戦にて、両名は追い詰められ、ついに討ち死にしたのだ。
温井と三宅に手を下したのは佐久間盛政だったが、七尾城陥落から5年を経て、連龍念願の復讐は戦という形で完遂された。
討ち取られた温井・三宅兄弟と遊佐長員は、大芝峠で晒し首になったという。
連龍が繋いだ現代にまで続く家名

画像:穴水町の能登鹿島駅 wiki c Akimoto
長 連龍は利家の死後、その跡を継いだ前田利長に仕えて関ヶ原の戦いや浅井畷の戦いに参陣した。
一度隠居したが後に復帰して、70歳で大坂の陣にも出陣しており、最終的に長家は3万3000石の大身となるまでの再興を果たした。
長氏は加賀八家として確固たる権力を持ち続け、維新後は男爵の爵位を賜っている。
一時は滅亡の危機に追い込まれた長家だが、連龍の執念により再び栄誉を取り戻し、その家名が現代にまで繋がったのである。
2013年には長氏宗家34代当主である長昭連氏が、石川県鳳珠郡穴水町名誉町民となった。
「復讐は何も生まない」という名言があるが、それは綺麗事に過ぎないのかもしれない。
少なくとも連龍の不屈の精神と命をかけた復讐は、その後の400年以上にも渡る家名の存続の礎を生み出したのである。
参考文献
川口素生 (著)『戦国軍師人名事典』
深浦和男 (著)『七つの龍の尾根: 加賀前田家の魁 長連龍 百万石の魁』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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