
画像:関ヶ原古戦場 イメージ
「天下分け目の戦い」として知られる関ヶ原の戦い。
その舞台となった現在の岐阜県不破郡関ケ原町に、かつて城が存在していたことが、近年の研究で注目されている。
これまで関ヶ原の戦いは、平野とその周囲の山々を使った野戦として語られ、城は登場しないとされてきた。
ところが、最新の調査によって山中に「玉城(たまじょう)」という城跡が確認され、戦いとの関係があらためて注目を集めている。
この玉城とは、いったいどのような城だったのか。そして、関ヶ原の戦いの中で、どのような位置づけにあったのか検証していきたい。
関ヶ原以前の玉城

画像 : 足利尊氏像 public domain
玉城はもともと、南北朝時代に築かれたとされる山城である。
元弘2年(1332年)ごろ、足利尊氏に対抗するため、佐竹義春が築いたと伝えられている。
その後も戦国時代にかけて使用されており、関ヶ原の戦いよりもはるか以前から知られていた城であった。
しかし、天正元年(1573年)、織田信長が近江の浅井氏を滅ぼしたのち、玉城も役目を終えて廃城になったとされている。
最新技術によって明かされる玉城の正体

画像:火縄銃イメージ
このように、廃城となったはずの玉城だったが、関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)に関与していた可能性があるとして、近年あらためて注目を集めている。
そのきっかけとなったのが、最新技術による地形調査である。
関ヶ原周辺の山林に対して航空レーザー測量が実施され、地表の微細な起伏が高精度に計測された。
そのデータをもとに作成された赤色立体地図によって、これまで樹木に覆われて見えなかった地形が浮かび上がった。
その結果、関ヶ原西方の山頂に、大規模な城郭構造があったことが明らかとなったのである。
しかも、それは通常の山城をはるかに上回る規模だった。
玉城の規模と残された痕跡

画像 : 玉城の位置(岐阜県内)wiki c Lincun
関ヶ原古戦場の西方、約2kmに位置する山頂では、人工的に削られたと見られる広大な平坦地が確認されている。
長辺はおよそ256メートルに達し、通常の山城の主郭と比べても極めて大規模である。
この規模は、一般的な本丸が一辺100メートル程度であることを考えると、倍以上の長さを持つ異例の広さといえる。
そのため、一部では「数万の兵を収容可能な陣城であった」とする見方もある。
さらに、この山頂部には人工的な急斜面「切岸(きりぎし)」がめぐらされ、場所によっては高さ20メートル近くに達している。
切岸の外側には「竪堀(たてぼり)」と呼ばれる縦方向の深い溝がいくつも掘られており、これらが防御施設として機能していたとみられる。

画像:枡形虎口の例 江戸城大手門 wiki c D Ramey Logan
そのほかにも、土塁や「外枡形」と呼ばれる防御構造が見られ、一定の戦闘を想定した築造であったことをうかがわせる。
こうした遺構の存在は、玉城が単なる山城ではなく、戦略的な防御拠点として整備されていた可能性を示している。
西軍の拠点だったのか?

画像 : 石田三成 public domain
玉城があるのは、関ヶ原の西側に位置する山中で、旧街道の東山道(中山道)や北国街道を見下ろす地にあたる。
この一帯は西軍の勢力圏内とされており、大谷吉継の布陣地に近い位置にあることから、後方支援や退路の確保を意図した拠点であった可能性もある。
番組などでは「石田三成の背後に位置していた」とも言われるが、実際の三成本陣(笹尾山)からは距離があり、直接的な連携が可能な位置とは言い難い。
むしろ、当時の構想としては、玉城を含む山々を拠点に、東軍を迎え撃つ持久戦を想定していたとも考えられている。

画像 : 玉城跡の位置 ※国土地理院地図ベースで作成 public domain
また、玉城からは関ヶ原盆地を直接見下ろすことはできないが、西側の山々や濃尾平野方面への視界はある程度開けており、大坂方面との連絡・合流を視野に入れた戦略拠点であったという見方もある。
西軍の総大将・毛利輝元は戦場に姿を現さず、豊臣秀頼も大坂に留まっていたが、玉城はこうした大将格の人物を迎え入れる構想のもとで整備された可能性もある。
関ヶ原の戦いを再検討?

画像 : 豊臣秀頼 public domain
玉城の存在を前提とすると、これまでの関ヶ原合戦の定説に再検討を迫る可能性がある。
まず、西軍の動きについてである。
従来は家康の上杉征伐中に三成が挙兵し、大垣城を拠点とした急な戦いとされてきたが、仮に玉城の整備が事前に進められていたとすれば、西軍はかなり早い段階から関ヶ原周辺を決戦の地と想定していたことになる。
東軍はその構想に巻き込まれる形で、関ヶ原へ進軍したとも考えられる。
特に玉城は、単なる陣城を超えた規模を持ち、明らかに何らかの“特別な存在”を迎えることを前提に整備されたように見える。
その人物とは誰か。
おそらく、豊臣政権の象徴である豊臣秀頼にほかならない。
当時まだ7歳の秀頼を玉城に迎え、名実ともに西軍の正統性を内外に示す狙いがあったとすれば、玉城の鉄壁の守りもその役割にふさわしいものだったと言えるだろう。
なぜ玉城は活用されなかったのか
史実として、西軍は関ヶ原の戦いで敗北し、玉城が実際に戦いに用いられた痕跡は残っていない。
では、なぜ玉城は活かされなかったのだろうか。
前述したように、西軍は関ヶ原での決戦に備え、玉城を整備しながら豊臣秀頼の到着を待ち、数日間におよぶ消耗戦を想定した拠点だった可能性がある。
しかし実際には、戦闘は想定外の速さで進展し、わずか半日で東軍の勝利に終わった。
戦局の急変により、玉城を本格的に運用する時間的余裕は失われ、戦略として活用されることもなかった。
さらに、西軍の主だった武将たちは戦後に処刑され、敗者側の証言が残されることは少なかった。
そのため、玉城にまつわる構想や役割も語られることなく、やがて歴史の表舞台から姿を消していったとも考えられる。
終わりに

画像 : 関ヶ原合戦屏風 public domain
「関ヶ原合戦屏風」には、西軍・大谷吉継の陣の背後に、ひっそりと小さな砦のようなものが描かれている。(上記画像の左上部分)
これが、玉城だという指摘もある。
屏風の制作は1620年、つまり関ヶ原の戦いからおよそ20年後のことであり、当時まだ玉城の存在が記憶として残っていたとも考えられる。
今後の歴史研究はもちろん、物語や映像作品の中でも、この幻の城が描かれる機会が増えるかもしれない。
航空レーザー測量のような手法が広がれば、ほかの地域でも知られざる城跡が明らかになる可能性は十分にあり、今後の展開が期待される。
参考資料:『関ケ原町歴史民俗資料館/関ケ原町観光協会 パンフレット』『関ヶ原合戦屏風、歴史道』他
文 / 草の実堂編集部
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