優れた才能をもつ秀吉の“でたらめさ”とは

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
豊臣秀吉といえば、素性のはっきりしない小者から身を起こし、戦国の世を天下統一へと導いた英雄として知られている。
天性ともいえる才覚で織田信長の軍団の中枢にのし上がると、山崎の戦いで主君・信長を討った明智光秀を破り、天下人へと上り詰めた。
そんな秀吉について、中世政治史を専門とする東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏は、著書『戦国史のミカタ』の中で「一貫性というものがないように思える」と評している。
さらに、「自分が今やりたいことを、他の何ものにも拘泥せずに実行している」とも述べている。
本郷氏のこの指摘は、秀吉の人物像を語るうえで、きわめて鋭いものである。
秀吉の「常識にとらわれない」数々の行動が、彼が人生において直面した幾多の困難を克服する原動力となったことは間違いない。
山崎の合戦や賤ケ岳の戦いで行った“大返し”は、その典型的な事例といえるだろう。
今回は、本郷氏のいう「秀吉のでたらめさ」を参考に、私見を交えつつ論じてみたい。
そこには、常人では到底計り知れない秀吉の思考回路を垣間見ることができるのである。
豊臣家存続のための方策を怠る

画像:蒲生氏郷 public domain
秀吉のでたらめさを指摘しつつも、本郷氏は彼を「アイデアマン」と称している。
荘園制度を完全に消滅させた「太閤検地」や、兵農分離を実現した「刀狩令」など、新たな時代を切り開く数々の施策を断行した点を高く評価し、秀吉をきわめて有能な人物として認めているのである。
そしてそれは「専制君主」とはそういうものだろうと納得しつつも、やはり秀吉の真意は理解できない、といぶかるのだ。
秀吉の“ちぐはぐな行動”の一例として、本郷氏は「武士が何よりも重んじる“家”の重要性を無視している」と指摘している。
その例として挙げられるのが、奥州会津の領主・蒲生氏郷(がもううじさと)没後の後継問題に絡み、氏郷の所領である会津92万石が没収された件である。
このとき、氏郷には何ら過失はなく、跡継ぎの秀行が幼かったというだけである。
にもかかわらず、秀吉がとった処置は蒲生氏にあまりにも過酷であり、このような仕打ちでは他の大名たちも安心して豊臣家に奉公することができない、と本郷氏は述べる。
ただ、このような秀吉の“家”への無頓着さは、彼自身の家である豊臣家に対しても同様であった。
武士が“家”を重んじるのは、子孫の繁栄を第一とするからであり、そのために自らの命を投げ打ってまで戦場で武功を立てようとするのである。
しかし秀吉は、没後に豊臣家を存続させるための方策を講じなかった。
それどころか、みずから進んでその芽を摘み取ってしまったのである。

画像:豊臣秀次像(部分)瑞雲寺所蔵 public domain
その代表的な例として、関白職を譲った甥の秀次を、淀殿との間に秀頼が誕生するや否や、一族もろとも滅ぼしたうえ、古くから自らに仕えていた秀次与力の大名たちまでも粛清してしまったことが挙げられる。
当時は幼児の死亡率が高く、秀頼が夭折する可能性は十分にあった。
また、秀頼が成長するまで秀次が関白職を保持していれば、豊臣家の基盤はさらに堅固となり、徳川家康に対抗できる力を保ち、豊臣の“家”が存続する可能性は高まったはずである。
秀吉は山崎の合戦で光秀を討ち果たして以来、一貫して家康を最大のライバルとみなし、その懐柔に苦心してきた。
ゆえに、自らの死後に豊臣家にとって最大の脅威が徳川家康であることを、十分に認識していたのは間違いないだろう。

画像:東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)public domain
それなのに、秀吉は家康に対して甘すぎた。
天下統一を果たした北条征伐の後、150万石に満たなかった家康の領地を関東に国替えし、250万石に加増した。
これで家康は、優に7万を超える兵力を有することになった。
そしてその兵力を抱えながらも、朝鮮出兵では留守居役を命じられている。
秀吉の子飼いの大名たちが渡海して疲弊する中、家康は自らの兵力を温存することに成功したのである。
これは家康の意志によるものではなく、あくまで秀吉の意向によるものであった。
そもそも、朝鮮出兵こそが豊臣家衰退の最大の原因であった。
秀吉の死後、若き秀頼を扶けるのは、秀吉に臣従してきた豊臣家臣団であるべきだった。
しかし、朝鮮出兵による文治派と武断派の分断により、福島正則や細川忠興といった本来ならば秀頼を支えるはずの大名までもが、家康側に加わることとなってしまった。
それが、関ヶ原合戦の帰趨に大きな影響を与えただけでなく、その後の大坂の陣による豊臣家滅亡を招いてしまうのである。
人生の最終局面で“家”という概念に目覚める

画像 : 豊臣秀頼 public domain
1598年(慶長3年)7月4日、自らの死期が近いことを悟った豊臣秀吉は、伏見城に徳川家康ら諸大名を召し寄せ、その席で家康に対し、秀頼の後見人となるよう依頼した。
さらに8月5日には、次のような遺言を残している。
• 徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は、秀吉の遺言を遵守し、互いに婚姻関係を結んで紐帯を強めること。
• 徳川家康は3年間京都に在留し、必要があれば嫡子・秀忠を京都に呼び寄せること。
• 徳川家康を伏見城の留守居の責任者とする。また、五奉行のうち前田玄以・長束正家を筆頭に、さらに一名を伏見に置くこと。
• 伏見城の留守居でない五奉行の残り二名は、大坂城の留守居を務めること。
• 豊臣秀頼が大坂城に入城した後は、人質として武家衆の妻子を大坂に移すこと。
秀吉が繰り返し口にしたのは、自身の死後に豊臣家が滅亡してしまうのではないか、という強い懸念であった。
そして何よりも、その最大の要因となりうる徳川家康への潜在的な不安であったのだ。
病臥しながら、「どうか皆で秀頼を支えてほしい」「秀頼を家康から守ってほしい」と懇願する秀吉の姿には、痛切な哀れささえ漂う。
人生の最終局面にあたり、秀吉は初めて守るべき“家”という概念に深く目覚めたのであろう。
そして8月18日、稀代の英傑・豊臣秀吉は62歳で波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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