※千姫姿絵(弘経寺蔵)
徳川秀忠の長女千姫は、わずか6歳で大坂城の豊臣秀頼に輿入れし、大坂冬の陣と夏の陣を体験、落城時に助け出されました。
そして本多忠刻と再婚。美男美女のお似合いのカップルと言われた姫路城での幸せな結婚生活は、夫忠刻と幼い息子の早世で終わりを迎えました。その後、江戸城に帰り、静かに暮らした彼女の後半生は、あまり知られていませんが、どのようなものだったのでしょうか。
千姫は、慶長2年(1597年)に徳川家康の三男秀忠と、正室お江の方の7人の子供たちの最初の子として、伏見の徳川屋敷で生まれました。
同母兄弟姉妹は2歳下に妹珠姫(3歳で前田利常に嫁ぐ)、4歳下に勝姫(10歳で松平忠直に嫁ぐ)5歳下に初姫(9歳で伯母常高院の養女となり京極忠高に嫁ぐ)、7歳下に徳川家光、9歳下が忠長、10歳下に和子(8歳で後水尾天皇女御として入内、中宮)がいます。
他にも、お江の方の連れ子である豊臣完子(九条家に嫁ぐ)という異父姉と、異母弟保科正之もいます。
[ikemenres]目次
千姫が生まれた慶長2年(1597年)頃は、激動の時代
慶長2年には慶長の役が起き、翌年8月には豊臣秀吉が亡くなっています。
そして慶長5年(1601年)には関ヶ原の戦いが勃発、
慶長8年(1603年)には徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開府。
慶長10年には、家康は千姫の父である秀忠に2代将軍を譲り、大御所となっています。
浅間山は噴火し、慶長の大地震、八丈島も噴火と、激動の時代です。
秀頼との結婚 大坂城での生活
秀吉の命令で、生まれたときから豊臣秀頼と婚約していましたが、慶長8年(1603年)に6歳で大阪城に輿入れしました。
司馬遼太郎著「城塞」には、千姫が大阪城に嫁入りの際、身重の母お江が、姉の淀殿にくれぐれもお千をよろしゅうと挨拶したところ、我が姪という言い方はせず、「江戸殿のお孫、大切にいたします」と言ったというシーンが出てきます。
このとき母お江のお腹にいたのが、千姫の弟でのちの将軍家光です。
兄弟と言っても、千姫とは幼い頃を一緒に過ごしていないんですね。ちなみに忠長はともかく、末っ子の後の中宮和子とは、ちらっとしか会ったことがないのではと思います。
千姫の大阪城での生活は、どうだったのでしょう。
秀頼との夫婦仲は良かったと伝えられていますが、千姫は別の御殿を与えられ完全別居、儀式のとき顔を合わせるのみであったようです。秀頼は従兄にあたるし、姑の淀殿は伯母です。
側についている人たちはといえば、母お江の方は娘がきちんと育つような頼りになる人材をつけたでしょう。そしてなによりも祖父家康は、大坂城の動静の情報を手に入れるための千姫輿入れだったはずなのです。
千姫の側には、お江の方の異母妹でもある乳母の刑部卿の局や、松阪の局おちょぼという、同じ年の小姓もいました。彼女たちには、千姫を守る役目もあり、スパイの役目もあり、かなり有能な女性たちに囲まれていたはずです。我が子を心配するお江の方との手紙のやり取りなども頻繁にあったでしょう。
千姫は、何不自由ないが、囚われ人のような生活でした。それでも手の付けられないわがままな女の子にならず、後々の出来事を見れば、まっすぐに育ってしっかりした女性に成長したことは、奇跡的なことではないでしょうか。
豊臣秀頼についても、大男だったという祖父の浅井長政似の約190cm、体重も100kg越えの巨漢で、武芸にも優れていたという話ですが、まったくはっきりとしたイメージがありません。が、彼が書き記した書、主に豊国大明神を見て「こういう立派な書を書く人が、頭が悪かったはずがない、おそらくは相当な人物だったであろう」という研究者の感想を聞いたことがあります。
まあ、滅びるときは誰が何をやっても滅びるもので、ヘッドが賢くてもどうしようもないのが歴史というものですが、どうも母淀殿の陰に隠れて、マザコンというイメージが強い秀頼、あんなに大坂城の奥深くにこもらず、どんどん加藤清正や、北政所らと接触していれば、もしかして歴史は変わったかもしれません。
大坂夏の陣の後
ともあれ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後、城の奥深くで成長した千姫が、再び歴史の舞台に登場することになります。
大坂城陥落で、山里廓の糒櫓(ほしいやぐら)に淀殿や秀頼たちが籠った後、千姫だけが城の外へ脱出できたのです。
色々な説がありますが、淀殿の命令で、千姫は輿に乗り侍女たちと共に家康の元に送り届けられたということです。
淀殿や秀頼の命乞いの使者であったともいいますが、なぜ一緒に死ななかったと表面上は叱責したけど、じいさまの家康も父の秀忠も千姫の無事を見て大喜びしたと伝わっています。
幼いときに嫁に出して苦労をさせた負い目とかあったのでしょうか、それにしても家康もあんまり息子や孫にやさしくした、可愛がったという話をあまり聞いたことがないけど、なにか特別に千姫のことは可愛がっていたような雰囲気を感じます。
大坂城落城後、千姫には有名な二つの話があります。
秀頼側室の娘を助けた話
秀頼の側室の子で、大坂城で育っていなかったらしい、6歳の秀頼の側室の娘が、落城後に登場します。
秀頼は23歳で自刃、側室の息子の国松7歳は処刑されてしまいました。この女の子も、殺されるところを、千姫が自分の養女にすると命乞いしたのです。そのため、結局は寺に入って尼になることを条件に許されました。後の鎌倉東慶寺の庵主天秀尼です。
※天秀尼像(東慶寺蔵)
この秀頼娘、天秀尼は、大坂冬の陣になってから大坂城に呼び寄せられたということですが、秀頼の正室である千姫は、おそらくほとんど会ったことがないこの子に対して筋を通す、当時としては立派な行いだったのではと思います。
例えば、池田輝政が、周囲が止めるのも聞かず、長久手の戦いで父を討ち取った徳川家康の家来永井直勝と会い、父の最期の様子を聞いた話があります。輝政は、永井が5000石しかもらっていないと聞き、父の首がたったそれだけかとつぶやいたというのが、家康の耳に入り、こっそり加増した、または池田輝政がじかに家康に永井の加増を願ったという話がありますよね。
戦国時代の風というのはそういうもので、千姫の天秀尼に対する助命嘆願は、当時の人たちには千姫のイメージを記憶にとどめるようなエピソードであったと思います。
天秀尼と千姫とは、その後も交流がありました。東慶寺の伽藍(がらん)に千姫弟忠長の元の屋敷を移行したり、天秀尼が断固とした態度をとって縁切寺として名をはせた事件(注)も、背後に千姫がいるからできたのではと思います。
千姫とは後々までも、手紙や季節の果物とか、やり取りもあったということで、形式的ではなく心のこもった人間関係にちょっと暖かい気持ちになるではありませんか。
(注)寛永20年(1643)に起こった会津騒動で、東慶寺に逃げ込んだ掘主水の妻をかくまった。
坂崎出羽守直盛の話 千姫事件
大坂夏の陣のとき、燃え盛る大坂城から千姫を助け出したものに千姫を与える、と思わず家康か秀忠が言ってしまった。坂崎出羽守が助け出した、やけどを負った坂崎出羽守を千姫が嫌がった、坂崎出羽守は千姫が本多忠刻と結婚するのを阻止しようとしたが、直前に幕府に知れて、江戸の屋敷を軍勢に囲まれ、自害した、千姫事件というのがあります。これは前述のような事実ではなく、坂崎出羽守は落ち延びてくる千姫一行に、単に途中で出会っただけということのようです。
または、坂崎出羽守は家康に千姫の縁談を頼まれて公家と交渉したが、それを反故にされて、本多忠刻と結婚するので面子をつぶされて怒ったという説もあります。これはありそうだけど、坂崎がそんなに公家に顔が効いただろうかという疑問も残ります。真相はどうだったにせよ、坂崎出羽守の事件は、千姫の意志とは別のところで起こった事件ではないでしょうか。
そして千姫は再婚することになります。
本多忠刻との出会い
※本多忠刻の肖像。
大坂城落城後、千姫は父秀忠や祖父家康と共に、江戸へ帰ることになりました。
その帰途、桑名の本多忠政の桑名城へ立ち寄ったとき、長男の忠刻(ただとき)を見初めたという話があります。
本多忠刻、思わず誰もが振り返る、ものすごいイケメンだったと言われています。
宮本武蔵の養子に剣術を学んだ体育会系でもあったというので、なよっとした美男子ではなかったでしょう。
千姫より一つ年上で、このとき20歳でありました。千姫の一目惚れだったという話もありますが、ここで知っておいていただきたいのは、本多家と徳川家とのつながりです。
本多忠刻のバックグラウンドがすごい
本多忠刻
まず父方、徳川十六神将といわれる、あの本多平八郎忠勝の孫になります。
※本多忠勝像、良玄寺蔵
父の本多忠政の姉は、真田昌幸息子の信之の妻小松姫なので忠刻は甥になりますね。(小松姫、好きなんですよ)
これだけでも立派です。が、母方にいきましょう。
母は父忠政の正室熊姫(ゆうひめ)です。
熊姫は徳川家康の長男、岡崎信康の長女です。なので、忠刻は、家康のひ孫になりますね。
熊姫の母は信康正室徳姫です。徳姫は織田信長の娘なので、忠刻は、信長のひ孫にもなります。
本多という姓に隠れていますが、徳川家の親戚であり、ものすごい血統書付きのイケメンだったというわけです。
千姫は言うまでもなく、父方から徳川家康の孫なので、忠刻母の従妹にあたります。
母方からは浅井長政とお市の方の孫にあたり、さらに言うならば、忠刻の曽祖父信長と千姫の祖母お市の方は異母兄弟なので、織田家とのつながりもあります。
千姫は祖母のお市の方に似た美女で、忠刻とは美男美女のカップルであったと言います。
実は、忠刻母熊姫が祖父家康に千姫と息子の結婚を頼んだという説もあります。
忠刻との結婚が決まった千姫は、まず、前夫の秀頼との縁切りとして、元和2年(1616年)、満徳寺に入寺しました。千姫の代理として松坂局が訪れただけですが、身代わりに乳母の刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)が俊澄尼と号して住職になったのでした。ただ、刑部卿の局は、住職になったと言っても、その後も千姫の側でずっと仕えています。
ここでちょっと疑問です。千姫の母お江は、秀忠と結婚する前に、二度結婚して無理やり離婚させられたけれど、縁切り寺に入ったという話は聞きません。祖母のお市の方も、小谷城から助け出された後、浅井長政は殺されたのでしたが、落飾せず、その後、柴田勝家と再婚するときも縁切寺へ入ったという話は聞いたことがありません。秀頼も、大坂城で死亡したならば、形式上とはいえわざわざ千姫が縁切寺へ行き、縁を切ることはなく、死がふたりを分かつまでなので、自然と縁が切れていると思うのですが・・・。
とりあえず、満徳寺と東慶寺、有名な縁切寺の由来が千姫がらみというのは興味深いことです。
そして千姫は、元和2年(1616年)、本多忠刻と結婚しました。
(去年は本多忠刻との結婚400年記念ということで、姫路城には顔出し看板とか大河ドラマの衣装展示とかがされていました。)
姫路城での幸せな生活
ともあれ、桑名城主だった本多家は、千姫と息子との結婚後、播磨の国15万石の姫路城へ転封となります。姫路城主としては、池田輝政の次の利隆が亡くなった後です。池田輝政によって、姫路城はほぼ、現在の姿になっていました。
千姫は、なんと10万石の化粧料(持参金)を持って来たので、そのお金で姫路城には新たに西の丸が作られました。
西の丸というのは、城主の嫡男が住むところですね。
千姫のために伏見城の遺構を移築した武蔵野御殿というのが建てられたそうです。残っていませんが。
千姫は播磨姫君と呼ばれたということですが、姫路城のある播磨の国に居る人を播磨姫君とわざわざ呼ぶなんて、それは江戸の徳川家での呼び名であったような気がします。
また、千姫は、姫路城西の丸でただ一つ残っている化粧櫓の北西にある、男山という丘陵の中腹に天満宮を建立させて、毎日拝んでいたということです。今もある千姫天満宮です。
10万石持ってきたら、なんでもありですね。
やがて千姫には息子と娘が生まれ、夫とも仲睦まじく穏やかな日々を過ごしますが、残念ながら、息子が夭折、夫忠刻も31歳で亡くなります。
この年は寛永3年(1626年)は、忠刻、姑熊姫、千姫母お江の方が次々亡くなりました。本多家は忠刻の弟が継ぐことになり、千姫は娘勝姫を連れて、江戸に帰り、出家して天樹院と呼ばれるようになりました。江戸城近くの竹橋に御殿を建ててもらって、そこに住むようになりました。
その当時の幕府は父秀忠は大御所として存命で、子供の頃からなじみのない弟の家光将軍の代になっていました。
千姫 の晩年の生活
ここで当時の徳川家のメンバーの年齢差を千姫中心に語ってみます。
千姫父の二代将軍秀忠は、徳川家康の三男で、徳川御三家は、秀忠将軍の弟たちです。
九男尾張義直(慶長5年1600年生まれ)、十男紀州頼宜(慶長7年1602年生まれ、)十一男水戸頼房(慶長8年1603年生まれ)
彼らは千姫や徳川家光の叔父なんですが、なんと、同世代、叔父のくせに慶長2年(1597年)生まれの姪の千姫よりも年下なんですね。3代将軍家光は、家康の孫、御三家は家康の息子たち、という固定観念で考えると、すごく年上のように思えますが、水戸頼房など、家光の一つ下で兄弟のように育ったらしいです。
また、尾張義直は、三代将軍家光に対して、自分は家康の息子であることを笠に着て偉そうにしていたので、本家の跡取り息子の家光としては、義直より年上で色々なことを見聞きして経験している千姫の存在を頼りにしていたのではないでしょうか。簡単に言えば、
分家の義直「戦中派、大阪の陣にも出陣した」
本家の家光「戦争知らず」
千姫「戦中派のなかの戦中派、実際に落城を経験」
という感じになるでしょうか。
現代では、若い世代の方が、戦争を知っている年寄りが何を言うかという感じで、戦争体験者をあまりよく見ない風潮ですが、江戸幕府創設時では、やはり権現様(徳川家康)と共に大坂の陣に出陣した経験があるというのは、武将としてのステイタスだったでしょう。関が原合戦で東チームにいたからこそ、今の食い扶持いえ地位が与えられたのですからね。
戦に一度も参加することのなかった家光は、伊達政宗などからいろいろ昔の話を聞いたりして、慕っていたということです。千姫についても同じことが言えるかもしれません。
千姫の娘勝姫は、2年後、岡山の池田光政と結婚しました。祖父の大御所秀忠の養女としてです。
本多家の娘というよりも将軍の孫として、徳川家が大大名と外戚関係を結ぶための政略結婚です。池田家には、徳川家康と織田信長の玄孫の血が入ったわけです。
尚、池田光政は、池田輝政の跡取り孫息子ですが、祖父輝政死去の後、父利隆が後を継ぎましたが33才で病死。当時光政は幼少のために姫路から鳥取へ転封になったのでした。その後に、千姫と本多家が姫路城主になったということなので、ちょっと皮肉な縁組でもあります。
光政は名君として知られているので勝姫は幸せな結婚生活であったでしょう、勝姫は後に池田綱政を産んでいます。
弟家光との関係
徳川家光は、前述のように千姫とは子供の頃には遠く離れた存在でした。が、江戸に帰って来てからは、意外と仲良くしていたようです。
前述のように、世代的に見ても一族の長として千姫に一目置いていたのかもしれません。家光は気難しい印象があるのですが、千姫も弟というより跡継ぎの将軍として敬意を払って接したのでしょうか、あの春日局、お福さんとの関係も良好だったということです。
また、家光の場合、正室の鷹司孝子とは、結婚当初から別居していて、いわばファーストレディー不在の状態でした。千姫には、徳川家の女主人としての役割もあったのかもしれません。
これは当たり前のようで、なかなか難しいことだと思います。
ヒステリーの家系
※お江の方 崇源院像(京都養源院所蔵)
千姫の母、お江の方は、かなり嫉妬深くて、夫の秀忠は、7歳年下というのもあるのか、お静という女中さんから保科正之が生まれたときも、お江の方にはひた隠しにして、実際に対面したのはお江の方の死後であったという話があります。
それに千姫の伯母で姑でもある淀殿も、ヒステリーであったという話が伝わっています。淀殿がもっと感情的でない賢い女性であったならば、豊臣家もどうなったかわからないといってもいいでしょう。
千姫の4歳下の実妹、勝姫(※勝姫は千姫の娘と妹と2人いる)も、かなり勝気な人で、孫娘を不幸にしてしまったというエピソードがあります(注)。それに徳川家には狂気の人も数人出ている、織田信長はアスペの疑い濃厚、という遺伝も考えに入れなければいけないでしょう。
が、千姫は、忠刻と息子の早世など、自分に起こった不幸な出来事は秀頼の呪いであるとか言われがちだったでしょうが、秀頼の菩提をきちんと弔ったり、天秀尼の面倒を見たりしています。
感情的になった話は伝わっておらず、普段はあくまで穏やかで控え目だが、しかし、ここというときは筋の通った行動をとる毅然とした女性、というイメージです。
(注)勝姫の孫に当たる国姫(光長の娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に光長と共に介入、結果、光通と国姫が共に自殺するという悲劇を招いた。
千姫 の後半生で登場する逸話
そういうことなので、千姫晩年の逸話としては、身内の世話を焼いた話ばかりです。
池田光政と結婚した勝姫(※千姫の娘)が、岡山の水害などでの財政的危機に際して、母千姫に手紙を書いて、黄金5万枚、銀2万枚を池田家にもたらしたという話があります。千姫を通して将軍家から出たお金だったのでしょうか。
寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を千姫が再建。弟忠長の屋敷を解体したものをコネで回したようです。
※三溪園に移築された千姫寄進の旧仏殿
正保元年(1644年)に千姫は、弟将軍家光の厄年に生まれることになった家光の三男綱重の厄除けのために養母となり、家光の側室であるお夏の方と綱重と竹橋御殿で暮らしたこともあります。千姫とは大坂城からずっと一緒に仕えた松坂の局おちょぼが、綱重の乳母になるなど、関係は濃くなり、千姫は大奥でも権力を持ったと言われています。綱重は35歳で早世しましたが、なかなかの人物であったようでした。
寛文5年(1655年)には、妹の勝姫に依頼されて、福井藩主松平光通と、勝姫の孫娘で、越後高田藩主松平光長の娘国姫との結婚について、幕府に対して介入した話もあります。前述のように悲劇的な結果になりましたが、これは千姫のせいではないでしょう。
千姫は、前将軍秀忠の長女として、一族に頼りにされて、きちんと役目が果たせる存在だったということがわかります。
寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。千姫は70歳で亡くなりました。弟家光より長生きし、甥の家綱の代になっていました。
孫の奈阿姫が千姫のために経文を書いて奉納していることで、親族らしいつながりを感じます。この奈阿姫は、自身の従兄である本多忠平と結婚しました。
千姫の前半生は、波乱に満ちていましたが、後半生は徳川家になくてはならない存在となっていたのではないでしょうか。
千姫の物語、そのうちに大河ドラマになるでしょうか。
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