資料を見ると「こうして彼は○○の戦いで討ち死にしたのであった」簡単にこう書いてありますが、実際の所誰かの手にかかって“あの武将”は亡くなったはずです?彼に向って刀を振り下ろし、槍を突き出した人間が居るはずです。
名のある武将を討ち取りながら、歴史の表舞台では語られなかった名も無き侍たちの事を調べてみました。
真田幸村 の最期
その時幸村は疲れ切っていました。
早朝からの大坂夏の陣天王寺口の決戦で奮戦し、みたび徳川の本陣へ突入、あわやと言うところまで敵の大将徳川家康を追い詰めたのです。しかし今一歩のところで取り逃がしてしまいました。その失望が余計に身体を重くします。
息子大助に豊臣秀頼様を最後まで守り抜くよう厳命し、自身は通りかかった神社の境内で一人身体を休めていました。
そんな時に名乗りを上げて来た徳川方の侍、槍を取り直し構えてはみましたが、もはや幸村に戦う力は残っていませんでした。
西尾仁左衛門(じんざえもん)宗次
幸村に名乗りを上げたこの男、相模の国の出で西尾仁左衛門宗次と言う者。
始め武田家の重臣横田尹松(ただとし)に仕えましたが、天正10年(1582年)武田の家は滅亡してしまいます。それから10年ばかり仁左衛門の消息は途絶えます。浪人となり仕官先を求めていたのでしょう。
次に姿を現すのは文禄2年(1593年)、徳川家康の次男越前松平家の結城秀康に200石で召し抱えられます。何でも仁左衛門の武勇の噂が耳に入り、仕官の声がかかったとか。それなりに腕は立ったようです。
出仕して間もなく鉄砲物頭(鉄砲足軽隊を率いる隊長)に任ぜられ、本陣前の先鋒をまかされる“先手役”を務めるなど、実戦に使える男として順調に出世して行きます。
仁左衛門の決意
慶長19年(1614年)大坂冬の陣開戦。仁左衛門も、秀康の息子松平忠直率いる越前松平勢1万に交じって“先手役”を務め、大坂城攻略に取り掛かります。足軽大将が最前線で戦うのは、何とか手柄をとの思いからです。
仁左衛門は危機感を持っていたのです。「家康公の覚えが目出度くなければ越前松平家も改易。そうなれば西尾の名前も世に残すことは出来ぬ」しかし冬の陣での松平勢の戦いは、華々しいものではありませんでした。
年が明け慶長20年大坂夏の陣が始まります。徳川対豊臣の最終決戦です。越前松平は家康の本陣近く茶臼山付近に布陣しますが、対峙する豊臣方に朱色の甲冑を着こんだ赤備えの一隊が見えます。
「真田か」仁左衛門には冬の陣真田丸の攻防で、さんざん痛めつけられた記憶が残っていました。
徳川方本多忠朝勢の銃撃で始まった「天王寺口の戦い」、最初は豊臣方が素晴らしい奮戦を見せ、家康本陣に迫る勢いでした。しかし時間と共に地力に勝る徳川方が反撃に移ります。越前松平隊も豊臣方を押し始め、この時「大坂城一番乗り」と「最多の首を獲る」手柄を立てます。
しかしその中に仁左衛門の姿はありませんでした。
安居(やすい)神社
何とか名を上げ家名を高めたい仁左衛門、大将首を狙って本隊を離れあちこち彷徨っていたのです。通りかかった神社の境内を覗いて見ると、朱色の甲冑を着けた武者が、槍を横たえ松の木に寄りかかって身体を休めています。
(あれは確か真田の赤備え)そう思った仁左衛門は名乗りを上げます。「真田の御家中と見え申し候。我は越前松平家鉄砲物頭、西尾仁左衛門なり。槍を合わせたまえ」
相手は黙ったまま槍を構えますが、その体には幾つもの深手を負っています。何合か槍を合わせましたが相手は疲労困憊のようで、足元も決まらない有様。ついに仁左衛門は敵を組み伏せ首を討ち取りました。
幸村の首
陣へ戻った仁左衛門「はて、名のある武者のようだが誰なのだ」相手が名乗らなかったので、討ち取った首が誰のものかわかりません。甲冑装束から見て一隊を率いる者とは推測できるのですが。
そこへ陣中見舞いにやって来たのは、羽中田(はちゅうだ)市左衛門とその弟の縫殿之丞(ぬいのじょう)です。戦の首尾を問われた仁左衛門は、討ち取った首を見せ「兜首じゃが、誰のものかわからぬので弱っている」と言います。
驚いた羽中田兄弟は口々に言い立てます。「これは真田左衛門の佐幸村殿に間違いござらぬ」「我等もともと真田家に仕えていた身、見間違いようはずはありませぬ」
真田家中の者とは見当をつけていましたが、幸村その人だとは思ってもみなかった仁左衛門、驚いてすぐさま家老の本多富正と本多成重に報告します。
幸村を討ち取った者が居るとの報せは主君忠直の耳にも入り、褒め言葉と共に褒美の脇差が与えられました。その後家康と秀忠にも奏上され、仁左衛門は両御所にもお目見えがかないます。この時にはご褒美金を頂きました。
自分を寸手のところまで追いつめた男が首になったのを見て、家康にも感慨が有った事でしょう。
仁左衛門出世
仁左衛門は幸村を討ち取った手柄により、年寄(家老)に次ぐ位の寄合(よりあい)に出世しました。石高も段々に上がっていき、最終的には3,800石の禄高の上級武士になります。わずか200石から始まった事を思えば大出世です。
仁左衛門は寛永12年(1635年)に亡くなりますが、子孫は福井藩に代々重臣として仕え、明治維新を迎えました。
西尾家には幸村を討ち取った時の戦利品として、兜・槍・采配が代々家宝として伝わり現在にまで至っています。
幸村を弔う
また仁左衛門は幸村を弔うために、彼自身も眠る孝顕寺(福井県福井市)に地蔵を建立し「真田地蔵」と呼ばれています。90cmに満たないお地蔵様ですが、裏には幸村の法名「大機院真覚英性大禅定門」が刻まれ、現在は福井市立郷土歴史博物館に保存されています。
もともと建って居た孝顕寺の安置所は“幸村首塚”と伝えられて来ました。しかし実際に埋葬されているのは幸村の鎧の袖で、本当の首塚は別の場所にあるのです。福井県下のどこかとされますが、墓が荒らされないようにとの配慮から、仁左衛門直系の子孫以外詳しい場所を知ることはできません。
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