名人と呼ばれた秀政
堀秀政(ほりひでまさ)は織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将・大名で「名人」とも称された人物でした。
享年38で早世したにも関わらず、その死の5年前・天正13年(1585年)に秀吉から越前国北ノ庄の18万石を任せられたほどの才の持ち主でした。
如何にして秀政はそこに至ったのか、その生涯を調べて見ました。
小姓から大名へ
秀政は、天文22年(1553年)に堀秀重の長男として美濃に生まれました。
当初は織田家家臣の大津長昌、次に秀吉に仕え、秀吉の家臣であった永禄8年(1565年)に13歳で信長の小姓へと取り立てられ直臣となったとされています。
秀政はそれから3年後の16歳のとき、当時信長を頼っていた室町幕府の将軍・足利義昭の住居の普請奉行を務め、これを皮切りに様々な奉行を務め上げて行政面から信長の信任を得て行きました。
また織田氏の主要な戦、天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐、天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱などに従軍し、同年に近江国坂田郡に2万5,000石を与えられて齢28にして大名に列しています。
秀吉の信任
秀政は、天正10年(1582年)に本能寺の変で主君・信長が明智光秀に討たれた際には、毛利攻めをしていた秀吉軍の軍監をとして備中にありました。
元々信長の直臣となるまでは秀吉に仕えていたことから、そのまま秀吉の家臣に戻り、光秀との山崎の戦いに挑むと中川清秀、高山右近らと互して先陣を務めました。
秀政はこの戦において、光秀の後詰に来た明智秀満勢を追い詰めて自刃させる武功を挙げ、秀吉の勝利に貢献しました。これ勝利によって秀吉は、主君の仇を討った功から同年6月27日(1582年7月16日)の清須会議においても主導権を握り、信長の摘孫・三法師(後の織田秀信)を織田の跡継ぎと定めて自身の権勢を高めることに成功します。
秀政はこの結果、三法師の守役と、丹羽長秀がそれまで治めていた近江・佐和山城を与えられ、さらに同年の10月には秀吉の一族以外で初となる「羽柴」の姓を賜ったとされています。秀吉の信がいかに厚いものであったか物語る処遇であった事が窺えます。
秀政の機転
秀政は天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康の連合軍が秀吉に反旗を翻した小牧・長久手の戦いにおいて、武将としての優れた采配を見せています。
この戦いでの秀吉勢は10万を超える兵を擁しており、方や信雄・家康勢はその数3万と数の上では圧倒的優位にありました。
家康勢の巧みな用兵の前に秀吉勢は決め手を欠き、小牧山上に籠城した家康と対峙したまま膠着状態に陥ってしまいました。この局面を打開しようと、秀吉勢の一部を使って家康の本拠地三河を狙う作戦に出ました。それによって籠城している家康を誘きだそうとの狙いがありました。
こうして秀吉の甥・秀次を総大将に据えた兵2万が進軍をはじめましたが、逆に家康の重臣・榊原康政が率いた5千に最後尾にあった秀次の部隊が奇襲を受け、壊滅させられてしまったのです。
この時秀次の横にあった秀政は、いち早くこの状況を察知し、勢いに乗った榊原勢が次に自軍に攻めかかるであろうことを読んで、隊を二つに分けて待ち伏せる布陣を敷きました。
果たして秀政の予想通りに攻め寄せた敵に対し、十分に引き付けところで鉄砲隊の斉射を加えてこれを阻止し、味方が総崩れとなりかねない局面を秀政の機転で見事に防いだ戦いとなりました。
数の上で圧倒的に有利な立場にいた秀吉勢が、局地戦では敗北を喫した中で唯一その面目を保った戦いとなりました。
名人の最期
秀政は、天正13年(1585年)に秀吉が関白に就任すると、同年の紀州征伐や四国平定の武功によって、越前国北ノ庄18万石を拝領する大身の大名となりました。続く天正15年(1587年)の九州征伐でも秀政は先鋒を勤めました。
更に天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍しましたが、この戦の最中の同年5月、疫病に倒れ陣中において享年38で没しました。
秀政に対する「名人」という評は、先の小牧長久手の戦いで見せた采配や、幾多の戦を潜り抜けてきた武の才についての形容と考えられがちですが、それだけではない巷説が残されています。
それは、大名として領地の統治を担う中で、たとえ見知らぬ者の言であれその内容が正しいと思えば直ちに受け入れて、自らの政の修正を図ることが出来たという、賢明な人物としての評でもありました。
堀秀行さんに声当てて欲しいね
以外と子孫なのかもしれませんね(笑)
堀秀政と蒲生氏郷の早世は秀吉にとっても痛恨でしたね
フェイスブックで他の方も同じことをおっしゃられていました。