米五郎左の異名
丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長・豊臣秀吉の二人の天下人に仕えた武将・大名です。
幼名の五郎に日々の生活に必要なものの意を込めた「米」をつけて「米五郎左」と呼ばれ、織田家において欠かさざる存在として重きをなした人物でした。
信長によって織田家筆頭格の家臣であった佐久間信盛が追放された後は、柴田勝家に継ぐ地位の家老となり織田家臣中のナンバー2の地位ありました。
しかし、豊臣秀吉と勝家が争った際しては秀吉方に与し、以後はその臣下としてと豊臣政権の大大名となりました。
信長の一門衆へ
長秀は天文4年(1535年)に尾張で生まれ、天文19年(1550年)から信長に仕えたと伝えられています。初陣は天文22年(1553年)の梅津表の合戦で19歳のときでした。
長秀の年齢は信長の1年下に当たり、尾張の一領主に過ぎなかった頃から信長に付き従った古参の家臣でした。
因みに長秀の「長」の字は信長から拝領したものであり、加えて信長の養女を正室に迎えるるなど、織田家の一門衆となり厚い信任を受けてたことが窺えます。
織田家中初の国持大名へ
その後長秀は、美濃の攻略においても貢献し、永禄11年(1568年)に信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛を敢行した際には、南近江を支配していた六角氏との観音寺城の合戦でも武功を挙げましした。
更に浅井・朝倉勢との姉川の戦いの後、織田勢が近江の佐和山城を元亀2年(1571年)2月に手中にすると、この城主に長秀は起用されました。
続く天正元年(1573年)9月には浅井・朝倉氏を織田勢が滅ぼしたことで、長秀はその旧領の一部である若狭を領地に拝領し、織田家中において初の国持大名へと起用されました。
織田家家老の二番手へ
その後も長秀は織田氏の勢力圏の拡大に伴い、各地の戦に従事しました。
しかし勝家や秀吉とは異なり、方面軍としての大軍を預かることはありませんでした。反面、行政面では安土城の普請の総奉行を務めるなどの貢献を見せ、織田家の筆頭格の家老であった佐久間信盛が対石山本願寺戦の責を問われて放逐されると、柴田勝家に次ぐ家中で二番目の地位を得ました。
因みに、当初木下藤吉郎を名乗っていた秀吉が苗字を羽柴としたのは、柴田勝家と丹羽長秀からそれぞれ一文字づつ拝借したものです。
本能寺の変
長秀は天正10年(1582年)6月に信長の三男・織田信孝を総大将とした四国への討伐軍の副将に任じられてました。
しかしこの出陣の直前に明智光秀による本能寺の変が発生、長秀は信孝と共に中国から戻ってきた秀吉の軍勢に加わって京の山崎で光秀勢を破りました。
この時の長秀と信孝は大阪にあったため、距離的には光秀を討つ絶好の位置にあったのですが、四国への討伐軍の本体は別行動を行っていたことから率いた兵は少ない状態にあり、止む無く秀吉勢との合流を余儀なくされたのでした。
そのため光秀勢との戦いにおいては表向きは信孝を大将としつつも、主導権は秀吉に握られることになりました。
123万石の大大名となった 丹羽長秀
光秀勢との山崎の戦いの後、織田家家老として柴田勝家・豊臣秀吉・池田恒興・丹羽長秀の4名がその後の方針を決定する清須会議を開催しました。
この席で長秀は、秀吉が提案した信長の孫・三法師を後継者とする案に賛同し、恒興もこれを支持したことから秀吉が事実上、織田家を掌握することが決定的になりました。この時点で長秀も秀吉に臣従することを選んだものと考えられています。
続く勝家と秀吉との天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいても長秀は秀吉勢に与し、戦後には勝家の領国であった越前及び加賀の一部を拝領し、合計の石高が約123万石にも上る大大名となりました。
しかしその2年後の天正13年(1585年)長秀は享年51で病没、生存していればその石高からも豊臣政権の五大老に任じられていたかもしれません。
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