名将の血統
高橋統増(たかはしむねます)は、鎮西一の剛勇・知勇兼備の名将として名高い立花宗茂(たちばなむねしげ)の実弟にあたる武将です。
後年には兄に倣い、立花直次(たちばななおつぐ)の名を名乗りました。
兄・宗茂と同じく、大友氏の重臣であり島津氏との戦いで壮絶な最期を遂げた高橋紹運を父に持つ武将として、統増自身も武勇に秀でた人物でした。
偉大な父や兄の影に隠れがちですが、統増について調べてみました。
豊臣の直臣へ
統増は元亀3年(1572年)生まれで、兄宗茂の5つ歳下にあたります。父・紹運や兄・宗茂と同じく大友氏に仕える武将でした。
本来、高橋家の嫡男は兄・宗茂でしたが同じく大友氏の重臣であった立花道雪のたっての希望で宗茂が養子に出されたため、次男であった統増が高橋氏を継ぐことになりました。
天正14年(1586年)、父・紹運が岩屋城で島津氏を相手に壮絶な討ち死にを遂げた後、統増は兄・宗茂とともに豊臣秀吉の直臣に取り立てられ、豊臣による九州へ征伐後の翌天正15年(1587年)6月には筑後の三池郡に1万8,000石を領する大名となりました。
高橋統増の武功
統増は、兄・宗茂の与力となって以後の戦に従軍しましすが、父・紹運が討ち死にした戦で自らも果てる事が出来なかった事を、生涯を通して悔やんでいたと伝えられています。
それ故か、兄・宗茂を父の代わりとして敬い、兄・宗茂に対面する際にも常に畏敬の念を表し、また戦の場においては自らが率先して戦いに臨む姿勢を貫きました。
天正15年(1587年)に肥後の佐々成政の領国で一揆が起こった際には兄・宗茂とその鎮圧に出陣し、僅か1日で13度に及ぶ合戦と、一揆勢の7つの砦を落とす武功を挙げました。
また、その後の朝鮮出兵においても、最大の規模の合戦となった「碧蹄館(へきていかん)の戦い」に、兄・宗茂に従って先陣を務め、敵将・李如松が率いた明軍十万を退けて味方の窮地を救う働きを見せました。
またこの文禄・慶長の役において明軍に兄・宗茂が捕らわれたとの誤報を受けた統増は、手勢の700余りのを引き連れて敵陣を突破して駆け付け退路を開いたと伝えられており、宗茂をして大剛の士と評されたと言う逸話が残されています。
徳川の旗本へ
統増は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、兄・宗茂の命により上方を離れて国元にあったとされています。
しかし豊臣の直臣に取り立てられた旧恩に報いるため西軍に与した宗茂ともども戦後には改易とされました。
そのため統増は、先ず肥後の八代に映り、更に後に京の北山へと移り住みました。
その後 兄・宗茂が、その武将としての器量を惜しんだ徳川氏に許されたことに伴い、慶長19年(1614年)に統増も許されると常陸の柿岡に5,000石を与えられて徳川の旗本となりました。
この時、家康の重臣であり復帰への仲介を担った本多正信から改姓を進められ、高橋姓から立花姓に改め立花主膳正直次と名乗ったと伝えられています。
また統増は、徳川家の剣術指南役であった柳生宗矩の弟子となりその剣を学んだ後、自らも「新陰治源流」を起こすなど剣技においても秀でた才を見せました。
子の代での旧領復帰
統増は、慶長19年(1614年)11月の大阪冬の陣に際しては、兄・宗茂と同じく徳川秀忠の旗本として出陣しています。
この戦でも打ち寄せた豊臣勢を退けて秀忠の窮地を救う働きを見せました。
しかしその3年後の元和3年(1617年)、統増は病によって江戸にて享年46歳で世を去りました。
その後、統増の子・種次は幕府から旧領であった三池郡の1万石を領して、大名への復帰を果たしました。
ここに三池藩は統増を藩祖と呼んでその名を現在まで伝えています。
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