古田織部とは
古田織部(ふるたおりべ)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた戦国武将でありながら、千利休 の「七哲」に数えられた茶人でもある。
人気漫画「へうげもの」の主人公としてアニメ化された古田織部は、千利休の死後「天下の茶人」となり、徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役を務めたが、千利休の反骨精神を受け継いだ彼は幕府の方針・意向をしばしば無視することもあったという。
その後、古田織部は大坂夏の陣の際に、豊臣方への内通を疑われて切腹させられたが、彼の一風変わった感性は「織部好み」と呼ばれる大流行を生み出した。
武将、茶人、芸術家でもあった「へうげもの」古田織部の生涯について迫る。
古田織部の出自
古田織部は天文12年(1543年)美濃国の国人・古田重定(勘阿弥)の子として生まれる。
父・重定(勘阿弥)は茶人として有名な人物で、後に織部は叔父・重安の養子になっている。
幼名は佐介(さすけ)、初名は景安(かげやす)、その後に重然(しげなり)と名を改めているが、一般的に茶人「古田織部」が有名であるので、ここでは織部と記させてもらう。
実父から茶の湯を習ったとされているが、「織部は初め茶の湯が大嫌いであった、興味がなかった」という説もある。
織部の古田一族は元々美濃国の守護大名・土岐氏に仕えていたが、織田信長の美濃攻略によって、またはその前に織田家の家臣となったとされている。
一説には織田家の家臣として桶狭間の戦いに参加したという説もある。
織田信長に仕える
織部は細川藤孝の使番を務め、信長の上洛に従軍し摂津攻略にも参加していた。
永禄11年(1569年)、摂津茨城城主・中川清秀の妹・仙を嫁に迎える。
天正4年(1576年)、山城国乙釧郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となり、天正6年(1578年)、織田信忠の播磨神谷城攻めで手柄を立てた。
荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは、義兄の中川清秀を織田方に引き戻している。
その後も羽柴秀吉(豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀の丹波攻め、甲州征伐にも従軍し、300貫と低い禄高ながら武将として活躍した。
豊臣秀吉に仕える
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いの前には、義兄・中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話もある。
滝川一益との伊勢亀山城攻め、賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げ、小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国平定にも参陣している。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると、織部は従五位下「織部助」に叙任される。
この叙任によって「古田織部」と称した。
この後も九州平定、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮には渡らなかったが、名護屋城の在番衆を務めた。
天下の茶人
茶人としては千利休に学び、天正10年(1582年)の千利休の書簡に織部の名前があったとされている。
織部の名前が茶会にあったのは天正11年(1583年)で、織部は40歳であったという。この頃に利休に弟子入りをしたとされている。
実父・勘阿弥の影響なのか、織部は後に「利休七哲」に数えられるほど茶の湯が上達した。
利休七哲とは千利休の高弟7人のことで、蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山監物・瀬田掃部・高山右近・牧村兵部である。
千利休は織部の美的センスを褒めていたという。
利休は織部が花に入れる籠を直に置くのを見て「自分も次から真似をする」と織部のセンスに非凡なものを感じたという。
織部は千利休の教えである「人とは違うことをしろ」という教えを守り、静謐な千利休の美とは異なる「激しく動的で大胆でありつつ自由な美」を確立していく。
千利休と秀吉の仲がこじれて千利休が追放になった時には、秀吉の勘気を恐れて誰も見送りに行かなかったが、織部と細川忠興の2人だけは見送りに行ったという。
天下の茶人
織部は茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界と様々なつながりを持ち、千利休の死後、全国の大名たちを弟子に持ち、秀吉の数奇の和尚(筆頭茶堂)となり、後に徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役を務め「天下の茶人」となった。
彼の弟子には、徳川秀忠・伊達政宗・佐竹義宣・金森可重・佐久間将監・浅野幸長・毛利秀元・小早川秀秋・島津義弘・小堀遠州など、名だたる戦国大名や公家などがいた。
将軍・大名・公家などの茶法を制定し、現在の茶事の形式も確立し、彼の茶流は「織部流」と呼ばれた。
へうげもの
織部は「他よりも面白いこと」を求め「調和しない面白さ」いわゆる不調和の中に生まれる自然な落ち着き、偶然の中に生まれる即興的・抽象的な、戦国時代では前衛とも言える感性を好んだ。
特に茶器では、「ひょこんとひん曲がった飲み口」「大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着という金継ぎ技法」など、当時では考えられないものであった。
人はそれを「へうげる(瓢げる)」と言い、織部を「へうげもの」と呼んだ。
茶室も千利休のものに比べて、窓が多く天窓も設けた開放的なものであった。
切腹
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍についたために、織部は1万石の大名になっている。
しかし、慶長20年(1615年)大坂夏の陣の際に、織部の重臣・木村宗喜が豊臣方に内通し、京への放火を画策した疑いで京都所司代・板倉勝重に捕らえられてしまう。
豊臣恩顧の大名・武将である織部も、前年の大坂冬の陣の頃から豊臣方と内通して、徳川方の軍議の秘密を大坂城内に矢文で知らせたなどの嫌疑がかかった。
これ以前にも幕府の意向に逆らうような言動が多かった織部は、この嫌疑について一言の反論もせずに切腹を受け入れ、大坂城落城後の6月11日に自害した。
享年73歳であった。
重臣・木村宗喜も処刑され、織部の子・重広も斬首されて古田家は断絶した。
家康は千利休が豊臣政権で力を持ったように、織部の自由奔放な茶が人の心を掴み、政治的影響力を持つことを恐れて切腹させたとも言われている。
千利休に続いて織部も切腹させられたことで、世の茶人たちは萎縮した。
徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新しい美を生み出す茶の湯は危険視されるようになった。
おわりに
古田織部は、織田信長には低い禄高で働かされ、豊臣秀吉の元でようやく出世しその才能を開花し、千利休の死後は「天下の茶人」となった。
古田織部が本当に豊臣方と内通していたのかは、現在でも謎である。
大名茶人としての古田家は断絶してしまったが、古田織部の茶道の教えは現在でも継承されている。
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