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豊臣秀吉にまつわる歴史的大発見
2020年、豊臣秀吉にまつわる歴史的大発見が立て続けに報じられた。
5月、秀吉が最後に築いたとされる幻の城「京都新城」の遺構が発見された。
豊臣秀吉晩年の「京都新城」跡 御所から石垣や金箔瓦
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6月、秀吉とその養子であった豊臣秀次に仕えた、駒井重勝の自筆日記の原本とされる一部が見つかった。
慶長3年(1598年)8月18日に天下人・秀吉が亡くなってから422年。「秀吉の新たな人物像が明らかになるのでは?」と研究者や歴史ファンはこの新発見に注目している。
今回はこの新発見も踏まえて、亡くなる7年前の天正19年(1591年)から亡くなる慶長3年(1598年)までの秀吉の行動について調べてみた。
亡くなる7年前 「唐入りを表明」
天下統一を成し遂げた天正19年(1591年)秀吉に不幸な出来事が襲い掛かった。
側室・淀殿との間に生まれた待望の男子・鶴松がたった3歳でこの世を去ったのである。
後継者を亡くした秀吉は甥・秀次を養子にして関白職を与え、自らは「太閤」と呼ばれるようになった。
しかし、隠居した訳ではなく、秀吉は日本国以外を手に入れてやろうという野心があった。
鶴松を亡くして悲しみにくれる中、秀吉は「来春に唐入りする」と全国に布告した。
唐入りの唐とは当時の明(中国)のこと。秀吉は明を征服するためにまずは朝鮮半島に進軍することを計画したのだ。
後世にあまり評判の良くないこの唐入り計画であるが、実は国際的要因が裏にあったともいわれている。
秀吉は宣教師や外国に通じている者たちから、「スペインが世界征服を狙っており、その中には東アジアの明や日本も含まれている」という情報を得た。スペインによる東アジア進出の野望阻止のために、機先を制して自らが明を支配してスペインに対抗しようと考えていた、という説である。
他には明の征服は元々は信長の構想であり、話を聞いていた秀吉がそれを実行に移したとされる説や、家臣に褒美を与える土地がなくなったためという考察もある。
唐入りの拠点となる城として肥前・名護屋城の築城に着手。
完成した時の名護屋城は大坂城に次ぐ広さがあったとされ、秀吉の意気込みが感じ取れる。
亡くなる6年前 「朝鮮出兵」
文禄元年(1592年)3月、唐入りの布告通り、秀吉は宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。(文禄の役)
日本軍はわずか半年で漢城や平壌などを占拠し、そのままの勢いで朝鮮半島のほぼ大部分を制圧した。
日本軍の活躍の知らせを聞いた秀吉は、関白・秀次に書状を送った。
その中には「三国国割構想」が書かれていたという。
三国国割構想とは、明国を支配した時には今の帝・後陽成天皇に明の都(北京)に移っていただき、秀次が大唐関白となる。
日本の新たな帝には後陽成天皇の皇子か弟がつき、日本関白は秀次の弟・秀保か宇喜多秀家が行うというのである。
つまり、日本・明・朝鮮を秀吉の近親者で統治して、秀吉は東アジアの盟主になるという壮大な構想だ。
しかも秀吉は、スペイン領のフィリピンに恫喝とも取れる書状を送っている。
それは「すみやかに日本に使者を寄越して服従せよ」という内容で、スペインによる日本征服計画に対する牽制・抑制効果があったようだ。
その時フィリピンの首都・マニラでは、秀吉が攻めて来ることに備えて戒厳令を引いたという話もある。
しかし、そんな簡単には秀吉の思う通りには行かず、明の援軍が朝鮮半島に到着すると戦況は膠着状態になってしまった。
亡くなる5年前 「秀頼が生まれる」
文禄2年(1593年)明との講和交渉が始まったが、秀吉の要求は明には受け入れられずに交渉は決裂した。
8月3日、淀殿が男子・拾(のちの豊臣秀頼)を産んだ。この時、秀吉は57歳であった。
この時のことが駒井秀勝の日記に「将来は拾様(秀頼)と秀次の娘を結婚させて舅(しゅうと)と婿(むこ)の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えである」と書かれている。
当初は養子・秀次と秀頼の二人で、天下を(日本を5つに分けてその内4つを秀次に残りの1つを秀頼に)と考えていたという。
亡くなる4年前 「秀次が情緒不安に」
しかし、実子・秀頼の誕生に焦った秀次は「いずれ関白の座を奪われるのではないか」と、段々情緒不安定になっていったという。
駒井日記には、「尾張は秀次の領地だったが、故郷の尾張の荒廃した様子を目にした秀吉が「尾州国中御置目」という定めを作って秀次の尾張統治を叱責した」と書かれている。
秀次は後継者として駄目出しをされたと考えるようになり、秀吉も我が子が可愛くなり、関白職を秀頼に任せて後継者にしようと思うようになっていった。
亡くなる3年前 「謀反の疑いで秀次切腹」
文禄4年(1595年)6月、秀次に謀反の疑いが持ち上り、秀吉の重臣たちは秀次のもとを訪れて謀反の疑いによる五箇条の詰問状を示し、清州城に蟄居することを促した。
しかし、秀次は出頭せず誓紙により逆心なきことを誓ったが、結果として7月15日に秀次は切腹して死去。一族29人も処刑されてしまった。
※一説にはなかなか関白の座を譲らない秀次に謀反の疑いをかけたとも言われている。(謀反の嫌疑が事実なのかは未だに定かではない)
秀吉は、秀次が住んでいた聚楽第まで破壊したという。
亡くなる2年前 「大地震が起こる」
文禄5年(1596年)閏7月13日、伏見城で寝ていた秀吉は、マグニチュード7.5と推定される慶長伏見地震により目を覚ました。
京都や大坂を中心に発生したこの地震で完成間近の伏見城天守は倒壊、伏見城内だけでも600人が圧死したとされ、幸い秀吉は台所で一晩過ごし命を長らえた。
亡くなる1年前 「2度目の朝鮮出兵」
慶長2年(1597年)小早川秀秋を元帥として、秀吉は2度目の朝鮮出兵(慶長の役)に14万の軍勢を出兵させた。
朝鮮南西部を制圧して当初の作戦目標を完了し、6万4,000余りの将兵を在番させ、7万余りの将兵を帰還させた。
この時の秀吉は61歳、2年後にも大規模な攻勢を計画しており、気力も体力もみなぎっていたという。
病気になっても今でいう風邪くらいで、大坂城内だけで300人の側室を有し、国中から美人や若い人妻を集め、秀吉から逃れられた者はいないとまで言われていた。
秀吉のスタミナ源は若い頃から好物だった「ドジョウ、八丁味噌」で、ドジョウ汁にしてその中に好物の「ゴボウ」も入れて食べていた。
京都新城
2020年5月、前述したとおり、秀吉最後の城とされている「幻の城・京都新城」の遺構が見つかった。
豊臣秀吉晩年の「京都新城」跡 御所から石垣や金箔瓦
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京都新城は慶長2年(1597年)御所の南東に築かれたとされ、当時は「太閤御所」とされていたことだけは分かってはいたが、正確な場所や規模などは不明であった。
京都仙洞御所の一角から、南北8mに渡る石垣の一部が出土した。
豊臣家が用いた桐紋の金箔瓦も出土したために、この遺構は秀吉が築いた「京都新城」の一部に間違いないとされた。
晩年の秀吉は伏見城や大坂城に住んでいたが、秀頼が住む京都新城を聚楽第のあった場所ではなく「天皇の住む御所のすぐそばに建てよ」と指示した。
京都新城に住む秀頼を摂関家としての豊臣家の象徴とし、将来秀頼が関白になることを想定して御所のそばに建てたとされている。
急ピッチで建てられた京都新城はわずか5か月で完成し、一説には秀吉と秀頼が入居して秀頼の元服の儀を行ったとされている。
しかし、秀頼が京都新城に住んだのはわずか1年ほどで、秀吉の死後は大坂城に移り住んでいる。
京都新城は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際に破却されてしまったという。
亡くなる5か月前 「醍醐の花見」
慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は京都醍醐寺三宝院裏の山麓において天下一の花見と言われた「醍醐の花見」を開催した。
700本の桜を集めて秀頼・北政所・淀殿ら近親の者と、諸大名からその配下の女房女中衆約1,300人(ほぼ女性ばかり)を招いた盛大なものであった。
亡くなる3か月前 「極度の下痢に襲われる」
5月3日、秀吉は朝鮮の状況報告を聞いて激怒した。
その報告は「蜂須賀家政と黒田長政が、その日の先鋒であるにもかかわらず戦をしなかった」というものだった。
それを聞いた秀吉は「臆病者が!」と叫んだ。実は文禄の役の時に豊後の大名・大友義統が秀吉に「臆病者」と言われて改易になっていた。
幸いにも二人は改易を免れ、後にこの一件も再調査されて間違いだったことが証明され、黒田長政や蜂須賀家政は名誉を回復している。
5月5日、秀吉は極度の下痢に襲われた。当初は軽く考えていたが倦怠感・脱力感・食欲減退・尿失禁・手足の痛みといった症状も出て、五大老らに遺言状を書いたという。
やがて病状は少し回復して、翌年の朝鮮出兵の備蓄を命じるまでになっていた。
亡くなる直前と隠された死
8月5日、秀吉の病状が悪化。秀吉は自らの死期が近いことを悟り、五大老に2度目の遺言状を書いた。
内容は「くれぐれも秀頼のことが成り立つよう、五人の方々に御頼み申す」であった。
8月18日、秀吉はついにこの世を去った。享年62であった。
秀吉の遺言によりその死はしばらくの間は秘密とされ、亡骸は甕(かめ)に納められて伏見城内に安置されていた。
秀吉が死んだことが敵国(朝鮮)に伝わると、日本の兵たちが帰国出来ない可能性があったからだ。
朝鮮半島からの引き揚げ命令が出されたのは、2か月後の10月であった。
引き揚げのめどがついた慶長4年(1599年)1月5日、石田三成ら五奉行が秀吉の死を公表した。
神格化
慶長4年(1599年)4月、伏見城内にあった秀吉の亡骸は、京都の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された。
秀吉の遺言には「死後、自分を新八幡として神格化するように」と書いてあった。
日本では八幡大菩薩は武士の神様・戦の神様とされてきた。
「新八幡」という神号には、死んだ後も外国(スペインなど)から日本を守りたいという秀吉の意志が込められていた。
しかし、神号を授ける後陽成天皇が秀吉に与えたのは「新八幡」ではなく「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」であった。
それは秀吉の正室・ねね(北政所・高台院)、秀頼、徳川家康の意向であったという。
豊国大明神には日本を代表する「日本大明神」という意味もあり、「豊国大明神」にも「武の神」という意味があった。
外国(スペイン・明・朝鮮)との戦いが終わった訳ではなく、今度は相手国から攻められることも考えられた。
そのため、秀吉を「豊国大明神」として日本の象徴として神格化することで、豊臣政権は国内外に盤石であるとしたのだ。
秀吉の死因
秀吉の死因についての記録は少なく、未だに死因は謎である。
「赤痢」ではないかという説もあったが、赤痢ならばもっと重症化して早くに亡くなったと考えられる。
秀吉に尿失禁・手足の痛み。食欲不振・倦怠感という症状があったことから「脚気(かっけ)」だったという説が濃厚である。
脚気は尿失禁・手足の痛み・歩行困難・錯乱などの症状が出る病気で、ビタミンB1の不足によって発症する。
米の胚芽部分にはビタミンB1が豊富に含まれているが、平安時代の貴族など高貴な人たちは精米した白米を食べていた。
出世する前の秀吉は精米していない米を食べていたが、出世してからは貴族が食べていた白米ばかり食べていたに違いない。
それによってビタミンB1が不足して、脚気になった可能性が高いとされている。
ただ、一般的な脚気では死に至るほど重症化することは少なく、食生活や生活の改善で治療するが、心臓機能の低下・不全(衝心・しょうしん)を併発した時には脚気衝心と呼ばれ、最悪の場合は死に至る。
おわりに
その後、秀吉が一番頼りにした徳川家康によって、秀頼・淀殿ら豊臣家は滅亡させられてしまう。
派手好きな秀吉は都を大改造するなど京都に活気を与え、京都の人たちは好景気を生んだ大恩人として敬ったという。
朝鮮出兵に関しては当時も反対する者は多かったが、後の徳川幕府が260年近くも外国の脅威にさらされなかったのは、秀吉が外国に圧力をかけた影響もあったかもしれない。
秀吉の朝鮮出兵は日本国内を統一し、大名になりたい家臣に領国を与えるためだと思っていたが、なんとスペインの世界征服計画に先立ち、中国を取り込もうとした秀吉の壮大なプロジェクトだったのか、勉強になりました。