安土城とは
安土城は戦国の覇王こと織田信長が、今から約430年以上前に琵琶湖の近くに築いた城である。
今は亡き幻の城だが、それまでの城郭には無かった革新的な城であったという。
今回は、信長の夢が詰まった「安土城に隠されたミステリー」を紐解いてみたい。
一所懸命
「一生懸命(いっしょうけんめい)」という言葉は「一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉から来ているとされている。
戦国時代の武将の多くは自分の領地と城を守るために、一ヶ所の土地や領民たちを命がけで守った。
一つの土地や城を守ることから本来は「一所懸命」と使われていたそうだ。
当時の戦国大名の多くは終生一つの居城を本拠地とするのが常であったが、信長は尾張の那古野城から清州城、その10年後に尾張を統一すると小牧山城を築城した。
宿願であった美濃攻略を果たした信長は、斎藤道三の居城であった稲葉山城を「岐阜城」と名を変えて岐阜の城下町を整備して、この城から「天下布武」を掲げて天下統一へと動き出した。
信長は家督と共に岐阜城主の座を嫡男・織田信忠に譲り、天下取りへ向けて新たな城の築城に着手することにした。そこで岐阜城よりも京都に近く、北陸を繋ぐ街道の要所であった安土に目をつけたのだ。
自分の領地と城を一生かけて守り抜いていた他の戦国大名に比べて、信長の行動はかなり異例のものであった。
領土を拡大していくと紛争地域にかけつけるのが難しくなり、時間も金も労力もかかる。
そこで信長はその時々に応じた場所に居城を移して、軍勢を合理的に動かそうとしたのである。
そんな信長が天下取りのために造ったのが安土城であった。
場所は近江にある標高199mの安土山(現在の滋賀県近江八幡市)である。尾張と美濃を領土としている信長が京都や大坂に進出するには近江はその中心にあり、琵琶湖の水運を大いに利用することが出来る最高の場所であった。
安土城の石垣
天正4年(1576年)1月、安土城の土木工事が始まった。
築城の総奉行に命じられたのは丹羽長秀であった。長秀は安土城完成までの信長の仮住まいである仮御座所の建設から着手した。
長秀は畿内や北近江、越前から多くの武士や職人たちを呼び寄せた。彼らは皆当代一流の技術者たちであったという。
安土城はそれまでの城の常識を幾つか覆している。その一つが石垣である。
それまでの城の土台は山を削って土塁を造り、周りを固めたものが一般的であった。
土の城から石の城へと、それまでの城の常識を一変させたのは信長であった。
他の地域で石垣を使った城を見た信長は、小牧山城から石垣の城の築城を開始した。
信長は選び抜いた大きな石だけを使用して、小さな石は破棄させた。
岐阜城にも堅固な石垣を用いていたが、安土城の石垣はその集大成とも言うべきものとなったという。
安土城の石垣は穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる高度な技術を持った石工職人集団を中心に築かれたとされている。
穴太衆は自然石を積み上げただけで強固な石垣を造る「算木積み(さんきづみ)」という技術を安土城に用いた。(※算木積みの技術が確立されるのは関ヶ原の戦い以降であるが、安土城では既に研究されはじめていた)
空前絶後の大工事となった石垣の工事には信長の有力な家臣たちも駆り出され、石垣の工事だけで約4年の歳月がかかった。
この工事に駆り出された信長の家臣たちは、石垣の技術を身に付け、後に自分の城の石垣に応用している。
無防備な一本道
城の道というのは敵の侵入を阻むために曲がりくねり、道幅も細いのが当然であった。
しかし安土城は大手道という大手門まで続く、長さ約180m・幅約6mの城の中腹まで続く一本道を造った。
まるで敵に「攻めるなら攻めてみろ」と言わんばかりの無防備な一本道である。
それは何故か?信長は当時の正親町天皇の行幸を計画していたからだという説がある。
ただ、山の中腹からは曲がっているので少し矛盾点が考えられ、最近はこの説の信憑性は薄れてきている。
大手道の周りには羽柴秀吉や前田利家ら家臣たちの屋敷が建てられ、複雑で防御性の高い構造となっていた。
天守
この時代の城は天守を持たないのが一般的で、天守というものが本格的に城に築かれたのは安土城が初めてだとされている。(過去にも天守に近い建物はあった)
天守の棟梁には熱田神宮の宮大工の棟梁である岡部又右衛門が任命され、工事はかなりの急ピッチで進められた。
地上6階・地下1階の7階建ての天守、最上階の高さは30m以上で、現在の10階建てマンションよりも高かったという。
天守の5・6階部分には金箔がはりめぐらされ、5階は鮮やかな朱色に塗られて八角形の形であった。
朱色に塗られた5階の柱には金の龍、天井にも龍の彫刻、壁にも龍の彫刻があった。
龍は中国の皇帝をイメージする象徴であり、信長自身が天皇を超える特別な存在、中国でいう皇帝をイメージしていたからだと思われる。
この頃、信長は全ての官位を朝廷に返上、しかも征夷大将軍や関白、太政大臣を打診されたが全て断っていた。
この頃の信長は、自身をすでに天皇を越えた存在と認識していたと考えられる。
安土城の天守は、信長が暮らす御殿の役割も持っていた。
さらに信長は安土城内に「御幸の御間」という天皇を城に迎えた時の御座所を造っていた。
しかし、その場所は信長のいる天守よりもはるかに低い位置にあった。
八角形の建物とは古来、神聖な人を迎えるための場所として造られてきた。
つまり、安土城の八角形の部屋は、信長は現人神である天皇よりも自分が上の神であるということを示しているのだ。
天正10年(1582年)正月、信長は年賀に訪れた家臣たちに安土城を見学させたが、豪華絢爛な八角形の天守は見せなかったという。
城の中部も縦板張りに黒漆が施された書院造りで、様々な障壁画が施されていた。これは当代随一の絵師・狩野永徳とその弟子たちが描いたとされている。
城下町の発展
安土城に信長は主だった家臣たちを呼び寄せた。
住み慣れた土地を離れることを嫌がった家臣たちは、故郷に妻子を残して単身赴任で安土城に来ている者も多かった。
彼らは慣れない一人暮らしで、火事を起こしてしまうこともしばしばあったという。
すると信長はなんと家臣の妻子の住んでいた家を放火して、無理矢理妻子を安土城に引越しさせたという。
また、家臣たちの屋敷の建設と並行して巨大な城下町の建設にも着手した。
戦国時代、城は軍事施設としての役割が強く、あまり城下町は発展してはいなかった。
信長は城下町の整備のパイオニアともなっている。
関所を撤廃して街道を整備、しかもこれまであった街道をわざわざ安土を通るように変更させている。
その上、「旅人は安土で必ず一泊する」という特別なルールを作り、近江国で馬の売買を出来るのは安土だけと限定した。
安土にやって来た者には自由に商売出来る「楽市楽座」を平定。これによって安土には「人・モノ・金」が集まり、城下町として目覚ましい発展を遂げたのである。
1階の謎
安土城の天守跡を調べてみると、天守台の基礎の大きさは南北30m・東西25mとされている。
しかし、文献には天守1階の広さは南北42m・東西35.7mとなっている。
ここが安土城1階のミステリーである。普通は天守台より天守1階は同じか少し小さく造るはずである。
このミステリー(謎)は京都の清水寺に見られるような「懸造り(かけづくり)」という工法を用いたのではないかとされている。
実際の平面よりも柱を外に出して、1階部分を支えて舞台を造っていたのではないか。
きっと信長はその舞台の上から家臣や領民に声をかけていたのではないだろうか?
信長の権力を見せつける最高の舞台となったに違いない。
サプライズ
天正9年(1581年)7月15日、信長は安土城を数千もの提灯でライトアップした。
「盂蘭盆会(うらぼんえ)」現在で言う「お盆」のことで、祖先の霊をもてなす供養の行事に、信長が家臣や領民に見せたサプライズだった。
闇夜に浮かぶ壮麗な安土城。その姿には誰もが信長の存在の大きさを実感したに違いない。
おわりに
信長の天下人としての夢が詰まった安土城は、本能寺の変の後に焼失してしまう。
信長だけが「天守」を「天主」としたとされている。
天下人となった秀吉も家康も「天守」とした。信長だけが「天主」という言葉を使える唯一無二の存在であったのだ。
関連記事:
「安土城、大坂城、江戸城」を築城した大工の棟梁と城の特徴
他の城に関する記事一覧
この記事へのコメントはありません。