島左近(しまさこん)という武士をご存じだろうか。関ヶ原の戦いで有名な石田三成配下の武将である。
謎に包まれた生涯ながらも、歴史ファンたちに愛される彼の生き様を解き明かす。
島の左近
島左近という名で知られているが、「勝猛(かつたけ)」「清興(きよおき)」とも伝わる。
現在は発見された自筆文書などにより、「清興」が正しいと考えられており、一説によると、「島左近」という名は、島氏で代々受け継がれる通り名だという。
出生は大和の国
島左近は天文6年(1540年)頃に誕生した。
織田信長は元服前、武田信玄や北条氏康が家督を継ぐなど、戦国時代後期の魅力的な武将たちの活躍が目前に迫った年代だ。
島氏は平群谷──現在の奈良県生駒郡平群町の椿井城・西宮城を本拠地とする在地領主であったと言われている。
左近は隣国の河内国(かわちのくに)、現在の大阪府南東部の大名、畠山氏に仕官。その後、大和国の筒井氏へ仕えることとなる。
筒井氏時代
左近は、元亀元年(1570年)頃には筒井氏の下にいたと言われている。
筒井家の資料に、元亀2年(1571年)の辰市合戦の頃、「嶋左近尉殿」とある。また「多聞院日記」に記載がある「嶋ノ庄屋」と呼ばれる男も左近だとされている。
嶋ノ庄屋は、永禄10年(1562年)父・豊前守との関係悪化により椿井城を襲撃。父以外の身内、9人を殺害した。父が、筒井氏の敵である松永久秀寄りだったことが、理由のひとつであると考えられている。
筒井順慶の下で活躍した左近は、天正16年(1588年)跡を継いだ筒井定次の頃、筒井家を去る。
「多聞院日記」や「武家事記」によると、浪人となった左近は、蒲生氏郷や豊臣秀長とその子、豊臣秀保に仕官したなどあるが、確かな足取りはわかっていない。
三顧の礼
石田三成の時代になると、左近の多くの逸話と出会うことができる。もっとも有名なものが「三顧の礼」だろう。
浪人時代、数々の仕官の要請を断ってきた左近が、20も年下の三成の懇請を受けた。三成は、左近の下に何度も足を運び、当時の自身の知行である4万石の半分、2万石を提示した。それ程に欲しい人材であり心意気を見せたのだ。
当時、主君と家臣が同禄高であるなど前例がないことだった。それだけで左近が仕官を決めたわけではないだろうが、心を動かされた理由のひとつと見て良いだろう。豊臣秀吉も「島左近ならば当然(の額)」と言ったという。
実際は三成が佐和山19万石の城主になってからであり、別の武将の話を元にしたという説が有力だ。それでも、三成が両手を広げて左近を迎えたことは事実だろう。
三成時代
主君石田三成が事務方奉行であったことから、左近は内政面でも手腕を振るったと言われている。
小田原征伐の頃には三成の重臣になっており、朝鮮出兵や徳川家康暗殺計画など文武で活躍を見せている。ちなみに、複数回進言した家康暗殺計画は、義を重んじる三成により潰されており、一度、会津討伐の際に水口城で実行されたが、失敗に終わっている。
また、関ヶ原の前に徳川方への誘いがあったが、豊臣政権が揺らぐ中でも断っている。この時、徳川方から派遣されたのは重臣柳生宗矩で、娘・珠の夫の甥である。
左近の使える男ぶりは
「三成に 過ぎたるものがふたつあり 島の左近と佐和山の城」と詠われた。
左近は、「へうげもの」と言われている主君に「天下分け目」の最後の日まで付き従うこととなる。
最期と生存説
日本の合戦史上最も有名だと言っても過言ではない、慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」。この戦が、左近最後の場所となる。
その前哨戦となる「杭瀬川の戦い」で、左近は釣り野伏という戦法で大勝。決戦当日も、自ら前線へと立った。
島軍と相対するのは黒田長政軍だった。左近は真っ赤な鎧と浅葱色の陣羽織、角のある兜という現代でも目立つような姿で戦場に立ったと言われているが、戦後、黒田兵にその姿を正確に語れる者がおらず、後々まで「鬼左近」の悪夢に苦しんだそうだ。姿形よりも、左近の鬼気迫る強烈な戦いぶりが記憶に残るとは、考えるだけで恐ろしい話だ。
左近は、黒田軍の銃撃を受け一度撤退、その後、三成を逃がすために再び突撃したと言われている。しかし、誰もが歴史の授業で学んだとおり、三成率いる西軍は敗北。遺体は見つかっていないにも関わらず、戦死と記された書物は多い。それ故か「生存説」が左近にもある。
・京都立本寺の僧として32年後に死去(左近名義の墓が現存)。
・現在の静岡県浜松市に落ち延び、百姓となった(末裔が在住)。
・鎌倉の光明寺で僧となり、細川忠興に仕えた。
など、合戦後の京都で目撃情報も多かったことから、生存説へと繋がっていったのだろう。
謎ゆえの逸話
・筒井氏時代と三成時代の間で、島左近は代替わりしたのでは、という説がある。関ヶ原合戦時、左近は享年61歳、代替わり後であるなら40前後。鬼左近として戦場を駆け、のちに32年余り生き延びたとするならば、代替わり説は無きにしも非ずだろう。
・裏付け資料はないが「武田信玄の下にいたことがある」と島津豊久に語ったと「天元実記」に記されている。
己の信念に従い、戦国乱世を駆け抜けた男は、主君と仰いだ男たちに忠義を尽くした。
その生き様が今後、より解明されていくことを楽しみにしている。
島左近の娘、珠女の夫は柳生兵庫助利厳で、利厳は宗矩の兄の子、つまり宗矩は甥ではなく叔父です。