日本一の成り上がりストーリーを駆け上った豊臣秀吉。
しかし彼が一代で築き上げた豊臣家は豊臣秀吉の死からわずが16年後に滅んでしまいます。
今回は豊臣家が滅んだ理由や原因などを探ってみます。
後継者がほとんどいなかった
豊臣家が滅んだ最大の理由はやっぱり後継者が少なかったことにあると思います。
秀吉には三人の息子がいました。石松丸と鶴松と豊臣秀頼です。
しかし秀頼以外の二人は成人する前に病没。秀頼のみが秀吉の息子という形になってしまいました。
そして秀吉には息子がいなくても甥がいました。その人の名は豊臣秀次。秀吉はもう子供を作れる自信はないと、甥である秀次に関白の官位を渡し、実質的な後継者に仕立て上げます。
しかし秀次は非常に運が悪かった。なんと秀次が関白に就任した翌年に秀頼が生まれてしまいます。なんというタイミングの悪さ。
秀吉は生まれた秀頼を後継者にさせたいとなんと秀次を高野山に追放。自害に追い込みまます。
さらにその家族や関係者なども連座して処罰され、30人以上の妻子が三条河原で処刑されました。
ここでの最大のキーポイントは秀次を処罰してしまったこと。
秀頼が生まれた時にはもう秀吉は57歳。人生50年という時代ですから秀頼が成人するまで生きているかなり可能性は低いです。
そこで秀次を秀頼が成人するまでの中継ぎにしておけば加藤清正、福島正則ら秀吉子飼いの武将などがしっかり秀次をサポートし豊臣家は安泰だった可能性は高かったはずです。
実際問題、秀吉が亡くなった時にはもう、後継者にふさわしい人物は秀頼しかいませんでした。
秀頼は当時わずか6歳。結果的に家康の台頭を許してしまう形になってしまいました。
ただでさえ少なかった後継者を潰してしまったことが、豊臣家が滅んだ大きな要因と考えてよいでしょう。
朝鮮出兵の失敗と小早川秀秋の裏切り
教科書でも載っている豊臣家滅亡の原因といえば、やはり朝鮮出兵の失敗は欠かせません。
朝鮮出兵は文禄の役、慶長の役の総称で朝鮮や明を征服しようと秀吉が起こした大戦役のことです。
この大戦役は最初の方は朝鮮をほとんど占領して有利になったはずが、明の援軍が来てからは一転、豊臣軍は劣勢になってしまい、秀吉の死を機に撤退を余儀なくされてしまいます。
結果的にこの朝鮮出兵は大失敗。豊臣家や大名達は凄まじい戦死者と戦費を使って疲弊してしまいました。
しかし、それだけでは豊臣家が滅ぶ理由があまりわかりません。実はこの朝鮮出兵が戦国時代で一二を争う裏切り行為である、小早川秀秋の寝返りにつながっています。
小早川秀秋はもともと秀吉の親戚で後継者候補の一人でありましたが、秀頼が生まれたことで秀吉から疎まれてしまい小早川隆景の養子となりました。
秀秋は小早川隆景が亡くなると小早川家の領地である名島(福岡市)30万石を引き継ぎました。そんなある日、秀秋にチャンスが到来します。なんと慶長の役で日本側の総大将となったのです。
しかし結果は日本の大敗。秀秋は責任を取らされ領地を全て没収。さらに最悪の場合切腹に追い込まれるピンチに追い込まれましたが、それを救ったのが徳川家康でした。家康のとりなしでなんとか秀秋は領地を取り戻したのです。
つまり関ヶ原の戦いの前から秀秋は家康に恩義を感じていた。そう考えると秀秋が東軍に寝返った事も納得しやすいです。
結果的には関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康はその3年後に幕府を開きました。一方の豊臣家は220万石から摂津・河内・和泉65万石の一大名に転落しました。
家康が長生きしすぎた
最後の理由として徳川家康が長生きすぎたというのも私は理由の一つだと思います。
戦国時代の平均寿命は50年。しかし家康は74歳で天寿を全うしました。家康は今で言うところの健康オタクと言うべき存在で、医学書を全てマスターして薬を自ら調合して服薬したり、鷹狩りなどを楽しんで盛んに運動も行なっていました。こうした健康意識によって家康が70代に突入していた頃には、秀吉が手塩にかけて育てた加藤清正などの秀吉恩顧の大名が次々と亡くなっていき、戦国時代最後の戦いである大坂の陣では豊臣家には大名は一人もつきませんでした。
ちなみに織田信長は49歳、秀吉は61歳で亡くなっています。
もしかしたら家康の性格を表している『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』の様に、家康は長生きしてじっくりと豊臣家を滅ぼすチャンスを狙っていたのかもしれません。
最後に
豊臣家の滅亡は秀吉が天下統一してからわずか26年後の出来事でした。その裏には豊臣家がしくじってしまった出来事や誤算が沢山ありました。
秀吉はただでさえ少なかった後継者を秀頼を溺愛したために潰してしまい、徳川家康の台頭を招く結果となってしまいました。
このように歴史では少しのしくじりによって国を滅ぼしてしまう例が多々あります。
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