豊臣秀吉は、奥州仕置(東北の領土処理)後、甥の豊臣秀次を関白(天皇を補佐し、政務を行う役職)とした。
しかし4年後、秀次は謀反疑惑が持ち上がり、同年、秀吉の命令で切腹する。
その際に、秀次と親しく交際していた大名の1人、伊達政宗も疑いを受けたのである。
この時、家康は政宗を助けたと伝わっているが、今回はその理由と方法について解説する。
秀次謀反事件とは?
1591年(天正19年)秀吉の甥・豊臣秀次は関白に就いた。
同年、有力外様大名と利害調整を進め、豊臣政権安定に不可欠だった人物・豊臣秀長(秀吉の異父弟)と、秀吉の跡取・鶴松(側室淀殿を母に持つ)が亡くなった。
関白秀次は、秀吉が定めた法律や規律に従って政治を行い、統括権は太閤(関白職を辞し、跡取が関白職に就いた者)秀吉が握るという、歪な二頭政治体制が続いた。
1593年(文禄2年)、淀殿の第二子・拾丸(豊臣秀頼)が生まれる。
秀頼が誕生したことで、淀殿と取り巻き連中の力が押し上がり、秀次に暗い影を落とすこととなる。
そこで、秀吉の軍師・黒田官兵衛は、秀吉の代わりに朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に赴く決意を秀次に促したのである。
しかし秀次は喘息の持病があり、諫言を素直に受け入れがたい事情があった。
1595年(文禄4年)いきなり秀次の反逆が疑われた。
鷹狩にかこつけ、反逆共謀している噂が立ったことが理由である。
秀次は「反逆の意図はない」という誓紙を提出と、伏見城(秀吉居城)への出頭を要求される。
二度の要請で出向いたが、高野山(真言宗総本山)へ登る命令を受けた。
秀次は頭を丸め、黒染め衣姿で高野山へ入り、出入り禁止と監視状態に置かれ、そのまま自害へと追い込まれた。(※享年28)
その後、秀次の正室や側室、子供達は、彼の死後1ヶ月も経たず三条河原で処刑されたのである。
伊達政宗が、秀次事件連座を疑われた理由とは?
秀次事件が起こった時、伊達政宗は岩出山城(宮城県大崎市、豊臣政権下の政宗居城)にいた。
三年ぶりに戻った領地だったが、のんびり過ごす間もなく絶体絶命の危機が襲ってきた。
秀吉より、京都へ参上するよう命令が届いたのである。
それは、秀次謀反の共犯疑惑に対する詰問だった。
秀次の切腹と妻子処刑の知らせは、伊達家中を一気に緊張させる。
なぜ、伊達政宗が秀次事件に関わりがあると疑われたのだろうか?
主な理由は3つある。
・伊達家の元家臣・粟野秀用(あわのひでもち)が秀次側近になり、両者を親しく取り持った
・ほぼ同年齢の秀次と政宗は、鷹狩りや武術の話相手であった
・若いながらも外様大名の実力者として、豊臣政権から危険視されていた
以上が挙げられる。
また、秀吉の思惑を付け加えるなら、伊達家臣団の優れた逸材に目を付けていた事が考えられる。
秀吉は、政宗の従弟・伊達成実に屋敷を与え、片倉景綱や鬼庭綱元に直属家臣になれと誘っていたのである。
もし政宗を上手く陥れたら、伊達家臣団を抱え込めるという計算が働いていた可能性もある。
家康は何故、政宗を助けたのか?
家康が政宗の窮地を救うため、手を貸したのは何故だろうか。
朝鮮出兵の拠点・名護屋城では、頻繁に水争いが起きていた。
1592年(天正20年)前田家と徳川家の間で、水争いが原因で戦争勃発寸前となった。
政宗は両者の和解を呼びかけ、自身は屋敷で守りを固めた。
しかし政宗は完全に中立というわけではなく、前田側の伊達屋敷に鉄砲の狙いをつけていた。つまり家康にあからさまに味方はしないが、実は家康側という立場だった。前田利家はそんな政宗を「二股膏薬」と罵っている。
家康は政宗が水争いで徳川方に味方し、争いを納めてくれたことに恩義を感じていたのである。
だが、理由はこれだけではない。
信長亡き後、秀吉と家康は織田家の後継者を其々推し立て対立していた。
秀次事件の11年前、1584年(天正12年)両者は小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で激突した。
家康は局地戦で有利に戦いを進めたが、洪水や地震などで自身の領地経営は危うかった。
両者は平和条約を結んだが、秀吉は家康を武力で滅ぼす事を諦めてはいなかった。
小牧・長久手の戦い後に起こった天正地震では秀吉軍も壊滅的被害を受け、一旦は家康征伐は中止となったが両者の軍事的緊張は常に存在していた。
こうした背景もあり、家康はいざという時の味方作りをしていたと考えられる。
家康が政宗を助けた方法とは?
政宗を助けるために家康が行った策は、とんでもないものだった。
伊達家臣団は、主君の島流しや四国へ国替えが耳に入る中、ただ傍観していた訳ではない。
政宗の叔父・留守政景は事態打開の相談に家康の元を訪ねたのである。そして家康はこう言った。
「おぬしらは主人の処遇に憤りせぬ事にはあきれた。斬死覚悟で挑んだらどうだ」
家康の煽りに政景は激怒し、伊達家中は一致団結して「主君が罪に問われ流罪や国替えがあれば、京都を火の海にして暴れまくる」と決意したのである。
その後、秀吉の使者が伊達屋敷を訪れると、彼らは弓鉄砲、刀で武装し門を固めた。
もちろん政宗は武具を一切持たずに使者を迎えたが「家臣達は自分の云う事を一切訊かず、一同死ぬ覚悟を固めてしまった」と使者に告げたのである。
そしてこの伊達家の状況を知った秀吉に対して、家康はさらに「朝鮮出兵途上の今、国内で内乱を抱える状態はよろしくない、今回は許すべきではないか」と諫言したのである。
つまり政宗の家臣を煽ることで、秀吉にとって面倒になりそうな状況を作り出し、政宗を許さざるを得ない状況へと誘導していったのである。
他にもこんなエピソードがある。
ある日、徳川屋敷前に政宗と彼の伯父・最上義光の秀吉に対する謀反が書かれた立札が、何者かの手によって置かれた。
最上義光は、秀次事件連座で15歳の愛娘・駒姫を三条河原で処刑されていた。つまり秀吉に恨みを持っていても何ら不思議ではなかった。
※【東国一の美少女 駒姫の斬首】 北方の猛将 最上義光は、なぜ家康に味方したのか?
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/64537/
しかし立札の件を聞いた秀吉は「これは2人を陥れようとする者がやった」とし、政宗や義光を責めずにお咎めなしとした。
政宗と義光は決して仲が良いわけではなかったが、もしこの2人が結託したら危険であることに秀吉は気づいたのである。
実はこの立札は家康自身が命令して立てさせたという説があり、表向きの家来ではない忍者衆にやらせたと考えられている。
家康は「2人が事を為すなら、後ろ盾になる場合もある」と、暗に秀吉に示してみせたのである。
終わりに
家康が政宗を救った方法は、秀吉の人となりを熟知していたからこそ可能だったと云える。
そして家康は、政宗とその家臣団には「権力者になめられたら終いだぞ」と、戦国武士の真骨頂を突きつけた。
武士の意地や覚悟を推し通しすぎても生き残れないが、覚悟や誇りを捨てれば強者の餌食になる。
家康自身も薄氷を踏む人生を歩んできたからこそ、取った策だったと云えよう。
参考図書
「伊達政宗とその武将たち」 飯田勝彦 著
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