短命に終わった豊臣家
豊臣秀吉は農民から身を起こし、天下人にまで上り詰めた日本史上最大の下剋上を成し遂げた人物である。
100年余り続いた乱世を終わらせ、天下統一を果たした成功者というイメージが強いが、豊臣政権はたった15年ほどで崩壊し、豊臣家自体も大坂の陣で徳川家康に攻められて、秀吉の死後17年で滅亡してしまう。
その後、家康の江戸幕府がおよそ260年も続き、徳川宗家は今なお家督が受け継がれていることを考えると、余りにも短かったと言える。
なぜ豊臣政権は短命に終わり、豊臣家は滅びてしまったのか?前編と後編にわたって解説していく。
人たらし(欺く)
そもそも農民出身だったと言われる秀吉が、なぜ天下人にまでなれたのだろうか?
それは織田信長の小者だった時、寒い冬の朝に懐で草履を温めて気に入られたと伝わるように、機転が利いた上に巧みな話術で人の心を掴んでしまう、いわゆる「人たらし」だったからだと考えられている。
人たらしのたらしとは「欺く」などという意味だが、秀吉がそれを周到に駆使したのは清洲会議であろう。
信長の死後、織田家には信長の息子(信雄・信孝)と孫(三法師)がいた。秀吉は清洲会議では幼い三法師を後継にし、その後見として権力を握ろうと考えていた。
これに反発したのが柴田勝家と信長の三男・信孝だった。すると秀吉は勝家と信孝を討つべく様々な調略を仕掛けていった。
まず、信孝を擁する勝家に対抗するために、秀吉は信長の次男・信雄を味方につけた。
信孝と信雄は仲が悪かったので、織田家の兄弟争いを利用して勝家と信孝を討ってしまおうと考えたのである。
柴田勝家と織田信孝を討つ
一説によると柴田勝家と激突した賤ケ岳の戦いでは、勝家の配下にいた前田利家と内通し、柴田軍を混乱させたことが勝利の大きな要因だったとされている。
敗れた勝家はお市の方と共に自害し、更に秀吉は信雄をそそのかして信孝を攻めさせ、信孝も自害した。
そして次に秀吉は、信雄を亡き者にしようと動いた。
信雄を討つ口実が欲しかった秀吉は、手のひらを返したように信雄を家臣のように扱ったのである。
これに怒った信雄は徳川家康と同盟を結び、秀吉を討つべく蜂起した。
こうして小牧・長久手の戦いが勃発したのである。
小牧・長久手の戦い
秀吉軍10万に対し、信雄・家康軍は約1万7,000、秀吉軍の圧倒的勝利かと思われたが、いざ戦が始まると秀吉軍の池田恒興や森長可たちが次々と家康軍に討たれ、秀吉は窮地に立たされる。
しかし、ここで秀吉は驚きの行動をとった。
何と信雄に対し「講和」を持ち掛けたのである。
普通に考えると、戦いを有利に進めていた信雄が講和に応ずるはずはない。
しかも、この戦いは信雄側に正義があり、秀吉は織田家に歯向かう逆臣・裏切り者という立場であった。
秀吉の凄いところは、信雄1人だけに講和を持ち掛けている点である。
「信雄1人なら何とか説得できる」という勝算があったのだろう。そして見事、信雄の説得に成功している。
これぞまさに秀吉が人たらしと言われる所以である。
信雄が講和に応じたことで、家康は戦う大義名分を失って撤退した。
天下へと邁進する秀吉
この戦を機に、織田家の人間に代わって、秀吉が信長の後継者として天下統一に突き進んでいくことになった。
その裏で秀吉は方広寺に日本一高い大仏を建立し、一般の人でも参加できる茶会・北野大茶湯を開催するなど、大きな話題づくりやイベントを開催していた。
また、家臣や公家に対して「金配り」を行い、人たらしという武器を最大限に駆使して天下人として邁進していったのである。
参謀の死
天下人・秀吉をよく支えた人物として知られているのは石田三成だが、秀吉には三成以上に信頼できる参謀役がいた。
それは、3歳年下の弟・秀長だった。
秀長は、秀吉が信長の家臣だった頃から側に仕え、中国攻めや柴田勝家との戦い、九州平定なども共に戦ってきた右腕だった。
秀長は温厚で誠実な人物であり、秀吉が家臣に対して怒りをあらわにした際には、秀長が間に入り関係がこじれないように何かと気を配っていた。
小牧・長久手の戦いでは、甥・秀次が失態を犯し、秀吉から激しく攻め立てられた。
落ち込む秀次に対し、秀長は何とか挽回の機会を与えようと、翌年には一緒に四国平定に出陣し、秀次に大きな武功を挙げさせている。
また、秀長は「守銭奴」と陰口を叩かれるほどの節約家だったが、対照的に金を使いまくる秀吉の裏で金策に走り、常に尻ぬぐいをしていた。
献身的に支えてくれた秀長に対し、秀吉は和泉・大和・紀伊100万石を与えた。石田三成に与えた領地が19万石だったことを考えると、いかに秀長を信頼していたかが伺い知れる。
しかし、秀吉が小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた時には、秀長の姿はなかった。
秀長は体調を崩し、病に伏せていたのだ。
そして翌年、天下人となった秀吉の姿を見届けた秀長は、この世を去ってしまったのである。
秀長の生前、秀吉はある大名に「内々のことは利休に、政のことは秀長に相談するといい」と言っている。
利休とは、茶人・千利休のことで、秀長と共に参謀役を担っていた。
しかし、秀長が亡くなった翌月には、利休も亡くなってしまう。
2人の死は無関係ではなかったという。
利休は茶の湯を介して秀吉の良き相談相手となっていたが、利休の大きな後ろ盾になっていたのは実は秀長だった。
秀長は家臣たちを束ねる役割を担い、利休は特別なポストを与えられていたが、秀長が亡くなったことで束ねられる人物がいなくなってしまい、家臣たちの間で権力闘争が起こった。
そうなると秀長から特別な待遇を受けていた利休の存在が邪魔になってくる。利休を邪魔だと考えた家臣の誰かが、秀吉にあることないことを言って利休を追い込んだという説もある。
秀長の死が、もう1人の参謀・利休の死を招いた可能性があり、秀長が亡くなってから秀吉は明らかに人が変わっていった。
相談相手を失ったことで秀吉は精神的に不安定になり、豊臣政権崩壊の足音が聞こえはじめてくるのである。
後編では「秀吉の無謀な野望」について掘り下げていきたい。
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