成田正成とは
江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代の寛永2年(1625年)1月、将軍のお膝元である江戸の町で3日間だけ鳴り物が禁止され、静寂に包まれた3日間があった。
これにはある1人の武将が関係している。
その人物は、家康の九男・義直(尾張徳川家の祖)の附家老となった成瀬正成(なるせまさなり)である。
将軍・家光が彼の死を悼み、江戸の町全体を3日間も静かにして喪に服したのである。
今回は、秀吉・家康の2人の天下人に必要とされ、秀吉からの好待遇オフャーを断った武将・成田正成の生涯について解説する。
出自
成田正成は、永禄10年(1567年)成瀬正一の長男として三河国で生まれた。
父・正一は、当初徳川家に仕えていたが、若い頃に出奔して武田家に仕え、その後徳川家に帰参し、家康の旗本として長篠の戦いなどで活躍した武将だった。
正成は幼い頃から家康の小姓として仕え、父とは異なり家康の一筋で忠臣であった。初陣である小牧・長久手の戦いでは、敵の兜首を取る武功を挙げて家康から500石と脇差を賜ったという。
翌年の天正13年(1585年)秀吉の紀州攻めを受けて四散し、家康を頼って来た根来衆50人を与えられ、徳川家では最年少(17歳)の一軍の将(指揮官)となった。
この根来衆の鉄砲隊が、後に根来組(ねごろぐみ)と呼ばれる百人組の部隊となる。
その後も家康と共に数々の戦に参戦し、家康が関東に移ると下総国葛飾郡栗原4,000石と四谷に屋敷を与えられ、甲州街道の防衛任務にあたった。
秀吉からのオファー
家康は、秀吉から「宝は何か?」と問われて「自分のもとにいる忠実な家臣たち」だと答えたという。
そんな多くの忠実な家臣の中でも、家康は正成を絶対的に信頼していた。こんなエピソードがある。
正成が1,000石を領していた頃、徳川家の「馬揃え」があったという。
「馬揃え」とは所有する軍馬を集め、その優劣や訓練の状況などを披露するいわゆる軍事パレードのようなものである。
徳川家の家臣にとっては待ちに待った晴れ舞台だった。
馬揃えに出ることはとても名誉なことであり、それぞれが選んだ自慢の良馬を豪華な馬具で飾り立てた。
それを天下人・秀吉が見物していた。
秀吉はある1人の男に目を付け、家康に「黒色の馬に赤い手綱をかけて乗っている者は何者だ?」と尋ねたという。
すると家康は「あれは成瀬小吉(成瀬正成)という者です」と答えた。
秀吉は「その者(正成)にはどれほどの知行を取らせているのか?」と質問した。
家康が「1,000石を与えております」と答えると、秀吉は「家臣に欲しい武者ぶりだ。私ならば5万石は取らせる」と言って家臣として所望したという。
天下人とはいえ、当時の正成の知行の50倍のオファーである。気前が良いとはこのことだ。
しかし、一番困ったのは天下人から好待遇でオファーを受けた正成であった。
主君・家康から「そなたは太閤殿下に所望されている」と知らされた正成は、どう対応したのだろうか?
正成は涙を流しながら切腹覚悟で、こう訴えた。
「年来心を尽くして、(家康様)御為には一命も捧げようと思っておりましたのに、今このように彼方(秀吉)に遣わされるのならば、腹を切るより他はありません」
これにはさすがの家康も困り果てた。そしてここまで尽くしてくれる家臣を手放したくないのが本音であった。
ただ、秀吉のところに行けば、正成には5万石の身分が待っている。しかも家康自身のメンツも立つ。
この相反する気持ちに折り合いをつけるのは、家康も難しかったに違いない。
ここで、家康は決断を下した。
「小吉(正成)よ、道理を曲げて従ってくれ」と正成を説得したのである。しかし正成は引き受ける気配がなかった。
家康は幼少の時から正成を見ていたので、簡単に折れる男ではないと分かっていた。
とうとう家康は正成の説得を断念し、秀吉にありのままを話すことにした。
「正成は切腹を覚悟に拒んでおります」
この返答は、さすがの天下人・秀吉も黙って受け入れるしかなかった。
自分のオファーを断ったからと才能ある武将を切腹させてしまっては、それこそ本末転倒であるからだ。
秀吉は「いかにも、彼の様子ではそのようなこともあるだろう。内府(家康)は良い人物を数多くお持ちでうらやましいこと。精一杯目をかけて手厚く召し使われよ」と家康に返答した。
こうして家康と正成は、共に事なきを得たのである。
秀吉に仕えれば大きな富と地位を得られたにもかかわらず、正成は一切迷うこと無く、しかも切腹を覚悟して信念を押し通したのである。
徳川義直の附家老に
関ヶ原の戦いにおいて、正成は家康の使番を務める一方で、根来衆100人を率いて隊の先鋒を務めて戦功を挙げ、堺町奉行に抜擢される。
その後、家康の家老(老中)となり本多正純や安藤直次らと共に、江戸幕府の政務の中枢として幕政に参与した。
その功として甲斐国2万石と三河国加茂郡内に1万石を与えられて、合計3万4,000石となった。
慶長15年(1610年)家康の九男・義直の傅役となっていた正成は、尾張藩に移封となる義直の補佐役として附家老を命じられた。
その後、尾張徳川藩の祖となる義直を助け、尾張藩創世記の藩政に大きく貢献したという。
最期
大坂冬の陣の和睦後、正成と本多正純らは大坂城の堀を全て埋め立てた。
それを大坂方に抗議されると、正成は「惣掘とは総掘のことであろう」と言って大坂方をからかい、話合いに応じない狡猾さを見せたという。
大坂の陣では駿府年寄として軍議にも参加し、全国の諸大名を統制する役割を担った。
寛永2年(1625年)自分の死期を悟った正成は「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言って聞かず、家臣たちが駕籠をかついで日光に向かっている振りをしたという逸話もある。
同年1月17日、正成は享年59で亡くなった。
おわりに
「徳川実記」には、成瀬正成が義直の附家老となった時の様子が書かれている。
「正成を義直卿(徳川義直)にお付けなさる時には、正成のこれまでの武功や才能を幾つも数え上げて、このような理由を持って補導の職に進ませるとした」
正成は本当は最後まで家康の側にいたかったのだろうが、家康から直々に武功や才能を列挙されては、さすがに断ることはできなかった。
それほど家康から厚い信頼を得ていたのだろう。
成瀬正成は、将軍・家光がその死を悼んで江戸の町を3日間も静かにさせるほどの本物の忠臣であった。
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