安土桃山時代

現地取材でリアルに描く『真田信繁戦記』 第3回・京都・大阪編 ~小田原征伐と朝鮮出兵~

エピローグ

画像 : 真田信繁/真田幸村肖像画

上杉景勝の人質から、豊臣秀吉の小姓となり大坂城に赴いた真田信繁は、ここで武将としてさらに大きな転機を遂げることになる。

それは、真田氏が豊臣大名として認められ、小田原征伐に父・真田昌幸とともに従軍したことで、豊臣軍の武将として実質上の初陣を飾ったことによる。

さらに、秀吉晩年に起きた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも秀吉旗本衆として出陣。天下人・秀吉との出会いは、その後の信繁の人生を決定づけることとなった。

豊臣秀吉のもとで大きな転機を迎える

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain

1586(天正14)年、真田信繁は豊臣秀吉の人質として、越後春日山城から大坂城に移った。

秀吉は信繁をたいそう気に入ったらしく、小姓として常に側に置くきだけでなく、豊臣姓を名乗ることを許したという。これにより真田昌幸は豊臣大名の地位を得ることとなる。

秀吉に臣従した昌幸は、徳川家康とも和睦した。

これは、秀吉が実妹・朝日姫を家康に嫁がせ、さらに母・大政所を人質として送ることで、上洛を果たさせ、臣従を誓わせたことによる。

画像:大阪城(撮影:高野晃彰)

画像:大阪城(撮影:高野晃彰)

信繁が大坂城に入った翌年に、秀吉は京都に聚楽第を建設、ここで後陽成天皇を饗応し、家康・織田信雄毛利輝元らの謁見を行っている。

おそらく信繁も秀吉について、京都に足を運んだと考えられる。

そして、信繁の大阪での生活で大きな影響を与えたのが、秀吉の寵臣・大谷吉継の娘を妻に迎えたことが挙げられる。

吉継は秀吉をして「大軍を与えて指揮をさせたい」と言わしめたほどの名将であり、石田三成らとともに豊臣政権の中枢にいた官僚でもあった。

吉継が婿となった信繁に多くの薫陶を与えたことは想像に難くないだろう。

小田原征伐に加わり初陣を飾る

画像 : 北条氏政の肖像(1538-1590年8月10日)、後北条氏四代目当主

秀吉は、長宗我部氏を服従させ、1587(天正15)年には島津氏を圧倒し、九州を平定するなど着々と天下統一を進めていた。

そして、1589(天正17)年、小田原城(神奈川県小田原市)を本拠とする北条氏政氏直父子に宣戦を布告、全国の諸大名に動員令を発した。

小田原征伐は、真田氏と北条氏の争いがきっかけとなった。真田昌幸と北条氏政は上野の所領をめぐって争い、秀吉の仲裁を受けていた。

この仲裁により、真田氏には、昌幸が祖先墳墓の地と主張した名胡桃城を含めた全体の3分の1を真田領に、それ以外の沼田城を中心とする3分の2は北条領と定められた。

しかし、沼田城代を務める北条氏家臣・猪俣邦憲が、名胡桃城を奪取したため、これに秀吉が激怒。

ついに小田原(北条)征伐が決定されたのだ。

画像:名胡桃城跡(撮影:高野晃彰)

画像:名胡桃城跡(撮影:高野晃彰)

1590(天正18)年、秀吉の命令に応えて、越後の上杉景勝、加賀の前田利家北陸支隊を編成、この軍団に真田昌幸が加わり、信之・信繁も従った。

真田勢は、上信の国境にあたる碓氷峠で松井田城(群馬県安中市)を守備する大道寺政繁勢と衝突した。おそらくこの戦いが信繁の初陣であったことと思われる。

信繁は乱戦の中で真田勢の先頭に立ち、槍を振るって突っ込み、大道寺勢を壊乱させるという働きをみせた。

この後、真田勢は北陸支隊に属しながら、北条方の要衛である松井田城、箕輪城(群馬県高崎市)などを陥落させ、北条氏政の弟・氏邦の居城・鉢形城(埼玉県寄居町)を囲んだ。

画像:鉢形城跡(撮影:高野晃彰)

画像:鉢形城跡(撮影:高野晃彰)

この間、信繁は石田三成軍に属し、一方の大将として3,000人の兵を率いて忍城(埼玉県行田市)攻めに加わっている。三成は、沼地に囲まれた忍城の周囲に堤防を築き水攻めにした。しかし、逆に堤防を決壊されるなど、城兵の頑強な抵抗に苦しんだ。

1か月の籠城戦の末、鉢形城を開城させた北陸支隊は、次に北条氏照(氏政弟)の居城・八王子城(東京都八王子市)を15,000人の軍勢で包囲した。

八王子城は秀吉来襲に備えて築城・改修された大規模な山城だったが、守る城兵はわずかに5,000名であった。秀吉は北条方支城の降伏を受け入れる戦術をとる北陸支隊の働きに不満を持っていたという。

そのため、八王子城に関しては降伏を一切許さず、猛攻の末、城兵から婦女子にいたるまで皆殺しにさせた。

画像:八王子城跡(撮影:高野晃彰)

画像:八王子城跡(撮影:高野晃彰)

北陸支隊は、その後、秀吉本隊が20万人の大軍で包囲する小田原城(神奈川県小田原市)攻めに合流した。

同城は、7月16日に開城。

ここに関東を中心に広大な版図を領した戦国大名・北条氏は滅亡したのである。

朝鮮出兵では秀吉旗本衆として活躍

画像:名護屋城復元模型(佐賀県立名護屋城博物館)

画像:名護屋城復元模型(佐賀県立名護屋城博物館)

小田原征伐で貴重な実戦経験を積んだ信繁は、その後も豊臣秀吉に臣従する。

1592(文禄元)年・1597(慶長2)年に秀吉が行った朝鮮出兵である文禄・慶長の役にも、昌幸とともに出陣した。

ただ、2回とも真田軍は渡海することなく、前線基地である名護屋城(佐賀県唐津市)の周囲に配された陣屋に滞在。おそろくは秀吉の旗本衆として、その身辺を固めていたと思われる。

文禄・慶長の役は、1598(慶長3)年の秀吉の死によって終結した。

この後、信繁は、父とともに本領・上田に帰り、関ケ原の合戦の前哨戦・第二次上田合戦にのぞむことになる。

※参考文献
高野晃彰編・真田六文銭巡礼の会著『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ、2015年12月

 

高野晃彰

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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