豊臣秀吉の若い頃のエピソードには、かなりユニークかつ凄まじいものが含まれている。
その中でも有名なのが「一夜城」だろう。
しかし、この一夜城がどのように建築されたのか、そもそも本当に存在したのか、など様々な説がある。
今回はどの説が有力なのか、掘り下げていきたい。
一夜城についてのおさらい
「一夜城」とされる城は、実は複数存在している。
細かい建て方などはさておき、一夜城に該当するとされている城について紹介しよう。
○墨俣城(すのまたじょう)
場所 : 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
築城年 : 1561年または1566年
築城主 : 木下秀吉・⾧康・小六ら蜂須賀党
目的 : 織田信⾧の美濃侵攻にあたっての足がかりのため○石垣山城(いしがきやまじょう)
場所 : 神奈川県小田原市早川
築城年 : 1590年
築城主 : 豊臣秀吉
目的 : 豊臣秀吉が小田原北条氏を屈服させるため
秀吉が建築した、または建築に関わったとされる一夜城は、この『墨俣城』と『石垣山城』の2つである。
その中でも有名なのは、墨俣一夜城だろう。
筆者が若い頃に読んだ秀吉の本にもその記載があり、学生時代に教師から解説された一夜城も、この墨俣一夜城についてだった。
この2つ以外には、福岡県嘉麻市にある益富城も一夜城だとする説もあるが、違うとする見解も多いのでここでは省く。
墨俣一夜城について
まずは、墨俣一夜城がどのように建築されたのかを探って行こう。
通説として2説ある。
簡単に解説すると、以下のようになっている。
・木曽川を利用して、ある程度組み立てたパーツを流して墨俣で拾って組み立てを行い、一夜で建築を終わらせた。
・一夜城に見せかけるために表面だけ作ったハリボテを用意し、相手が攻めあぐねている間に本当の城を作った。
しかし、近年の研究では「墨俣一夜城の逸話はフィクションだ」と指摘されているのが実状だ。
まず、この墨俣一夜城の逸話は『前野家古文書』の一つである『武功夜話』にあり、この書物に墨俣一夜城築城の経緯が書かれていることから、代表的な一夜城の逸話として現代まで伝わっている。
墨俣城跡にもある資料館では『前野家古文書』に基づいた情報が開示されているので、やはり情報発信源は『前野家古文書』なのだ。
ただし、この『前野家古文書』は、後世に何者かの手により多くの不正確な記述が書き加えられた形跡があり、史料的価値は低いとされている。
当時の墨俣近辺で発生した織田信⾧の美濃攻めが記載してある史料には、墨俣一夜城の建築に関する情報は一切出てこない。
良質の史料筆頭と言われる太田牛一によって書かれた『信⾧公記』にも全く記載が無く、他の史料でも見つからないのだ。
墨俣一夜城の建築方法は上記の通説とされているが、そもそも墨俣一夜城自体がフィクションの可能性が高いのである。
石垣山一夜城について
次は、小田原征伐の時に築城された石垣山一夜城について解説する。
これは、小田原北条氏を屈服させるため建築された城である。
建築方法は、大きく分けて2説ある。
それは以下の通りだ。
・周りに背の高い木々があったので、その木々に隠れて建築し、完成後にその木々を切って一夜城のように見せつけた。
・塀や櫓(やぐら)の骨組みを素早く作り、それに白紙を貼って白壁のように見せかけてから周囲の樹木を切り倒し、一夜城に見せた。
後者の場合はいわゆるハリボテなのだが、そのハリボテのアピール中に裏手で城を作っていたと考えられている。
個人的に一番しっくりくるのは後者だ。
前者はそれほど大規模な築城工事をしているのなら、いくら木々で見えにくくしていたとしても北条側には見えている可能性が高いと思えるからだ。
後者ならばハリボテによる見せつけの一夜城なので、北条側に気がつかれずにアピールすることは可能だったのではと思える。
奇しくも、この後者の説は、筆者が学生時代に教師から聞いた一夜城の逸話そのままだったので、個人的にはなんとも感慨深いものがある。
石垣山城は、1989年からの発掘調査で天正19年(1591年)の銘のある瓦が発見されており、小田原落城後も城の建設が続けられていたことが判明している。
参考 : 『信⾧公記』他
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