織田信長には多くの夫人がいたとされます。
知られているだけでも、正室の帰蝶(濃姫)をはじめ、生駒吉乃・坂氏・於鍋の方・養観院など、10人以上の存在が確認できます。ただ、歴史上有名である信長に比べると、夫人たちの史実は余りにも知られていません。
【織田信長をめぐる女性たち】では、そうした女性にスポットを当て、その真実の姿に少しでも迫っていきたいと思います。
今回は、信長の正室・濃姫こと帰蝶について、考察をしていきましょう。
実像についてほとんど分かっていない濃姫
濃姫についての通説は、美濃国主の戦国大名・斎藤道三の娘で、1549(天文18)年に信長と婚約。まもなく輿入れし、信長の正室になったとされています。
ただ、信長の祐筆・太田牛一が実際に見聞した現状をもとに著した一級資料『信長公記』にも、「美濃の道三の娘が信長に嫁いだ」と書かれているだけで、その名前はもとより濃姫という名も登場しません。
彼女の名前に関しては『絵本太閤記』には「濃姫」。『美濃国諸旧記』では「帰蝶」。『武功夜話』では「胡蝶」の名前で登場します。
濃姫は、濃州(美濃国)の高貴な女性という意味と考えられ、もちろん本名ではないでしょう。近頃は、映画ドラマなどで、帰蝶という名が使われることが多いようです。
もちろん彼女の実在を積極的に疑うような根拠はありません。しかし、何分にも史料が極めて乏しく、その実像についてはほとんど分かっていないのが実状です。特に、信長に嫁ぐ前の前半生や没年など多くの謎があります。
今回は濃姫にまつわる謎として、そのあたりを中心に考えていきましょう。
快川が供養した女性・雪渓宗梅大禅定尼とは
『寛永諸家系図伝』などの美濃伝来の斎藤系図には登場しない斎藤道三の娘がいるという説があります。
彼女は、道三に謀殺された美濃守護土岐頼純の正室であり、郷土史家の横山住雄氏は、「この女性こそ濃姫である」としています。
その証拠として、1574(天正2)年11月25日に、甲斐国恵林寺の僧・快川紹喜(かいせんしょうき)が、「雪渓宗梅大禅定尼」という女性のために、施主・導師として行った一周忌法要を挙げています。
快川紹喜とは武田信玄の帰依を受け、武田勝頼滅亡の際、恵林寺山門に立て籠もり「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残しながら、火炎の中に没したあの名僧です。
「今年天正甲戌十二月廿五日は、雪渓宗梅大禅定尼の一周忌に当たる。あらかじめ十一月廿五日に、恵林寺で厳かに斎会を設けて供養する。けだしこの人は岐陽太守鐘愛の女性で、仏になった。ゆえに私は香語を唱えて供養する。」
快川によると彼女は、1573(天正元)年12月25日に亡くなった「岐陽太守(織田信長)最愛の女性」であったとされます。
当時、岐阜を離れ信玄のもとにいた快川が、わざわざ一周忌を行ったのは、この雪渓宗梅と快川が親しい関係にあったからに他ならないと考えられます。
快川は、道三の後を継いだ義龍と不仲になる前は、岐阜を中心に活動していました。濃姫が頼純と結婚していた1547(天文15)年から1年ほどは、頼純の居城大桑城の城下にあった南泉寺にいて、濃姫・頼純と親しく言葉を交わしていた可能性が高いというのです。
そして、1548(天文16)年に頼純が没すると、濃姫は道三のもとに帰り、1549(天文18)年の春に信長と再婚しました。
快川は、心ならずも父の国盗りのために夫を失った濃姫を想い、遠く離れた甲斐の地で、法要を執り行ったのではと推測されています。
信長最愛の女性として幸せな人生を歩んだ
さらに、横山氏は興味深い指摘を行っています。
公家の山科言継の日記である『言継卿記』の、1569(永禄12)年7月27日の条に記されている記事です。
「一色(斎藤)義龍の後家が所有している壺を信長が度々差し出すように迫った。もしこれ以上要求するようなら、自分だけでなく信長の本妻や縁者ら多数が自害すると騒いだので、信長は探索を諦めた」
信長の夫人の中で、本妻と記されてもおかしくない女性は限られます。正室濃姫と、二男信勝(嫡男信忠の母との説もあり)などの母である生駒吉乃、そして信吉らの母於鍋の方の3人です。
このうち、吉乃は1566(永禄9)年に亡くなり、於鍋の方はこの時、信長の愛妾になって1年も経っていないため、この日記の信長本妻は濃姫であると考えられます。
このように濃姫は、1569(永禄12)年の中頃までは健在でした。
そうなると、その4年後の1573(天正元)年12月25日に亡くなった「雪渓宗梅大禅定尼」は、やはり濃姫の可能性が高いのではないでしょうか。
いかがでしょうか。濃姫こと帰蝶は、土岐頼純の正室であったが、夫の死後まもなく、再婚して信長に嫁いだ。
そして、信長最大のライバル・武田信玄の病死、室町幕府第15代将軍・足利義昭の追放など、信長にとっては大きな転換期となる1573年末には、岐阜の地でこの世を去っていたことなどが、朧気ながら見えてきたのではないでしょうか。
濃姫の没年に関しては、「本能寺の変で信長とともに自害した」、「信長の死後も生き抜いて1612(慶長17)年に亡くなった」など、様々な説が唱えられてきました。しかし、濃姫はそこまで生きられなかったのが真実のようです。
では、政略結婚で信長に嫁いだとされる濃姫の人生は、幸薄いものだったのでしょうか。それに関しては、はっきりと否定できそうです。
快川が言うように濃姫は「織田信長最愛の女性」であったからです。
さらに、信長は濃姫と思われる女性が没した約1ヵ月後に、女性の画像を2幅描かせています。そして、その賛文を交友があった京都五山の禅僧で天龍寺妙智院住持・策彦周良(さくげんしゅうりょう)に、書き入れるように依頼しているのです。
信長が女性の画像を作ったという資料は、これ以外に見当たりません。この女性が濃姫である可能性は高いと言えます。
信長の濃姫に対する愛情は、とても深かったといえるでしょう。
濃姫がどのような理由で亡くなったかは知る由がありません。
しかし確かなことは、彼女は、信長のもとで幸せな人生を送っていたのです。
※参考文献
横山住雄著 『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下剋上』戎光祥出版 2015年9月
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