【織田信長をめぐる女性たち】では、信長にまつわる女性たちにスポットを当て、その真実の姿に少しでも迫っていきます。
今回は、信長の愛妾であり、その後継者たちを産んだ生駒吉乃(いこまきつの)について、考察していきましょう。
濃姫同様に謎に包まれる吉乃の実像
織田信長の正室・濃姫同様に、生駒吉乃に関しても詳しいことは分かっていません。
※濃姫については
【織田信長にまつわる女性たち】 謎多き正室・濃姫(帰蝶)の真実とは
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/80370/
通説によると、吉乃は、尾張小折城主・生駒家宗の長女として生まれ、土田弥平次に嫁ぐものの、1556(弘治2)年に夫が戦死。
実家に戻っていたところ、信長に見染められその側室となり、二男・信雄(のぶかつ)、長女・徳姫を出産。
嫡子の信忠も、吉乃の子であったとする説もあります。
ちなみに吉乃の最初の夫・土田弥平次の実像も知られていません。土田氏は美濃国可児郡を本拠とする土豪で、信長の実母・土田御前(どたごぜん)もその出身ですので、織田氏と何かしらの関係があったことは考えられます。
このように吉乃が、信長の後継者たちの母でありながら、その実像に不明なことが多いのは、彼女の名前や事績が『武功夜話(ぶこうやわ)』にしか登場しないという点にもあります。
今回は、生駒吉乃への考察ですので、『武功夜話』について詳細に述べるのは避けたいと思います。
しかし、吉乃を語るうえで必要不可欠な資料ですので、簡単に触れておきましょう。
『武功夜話』は、『前野家文書』と呼ばれ、愛知県江南市の旧庄屋・吉田家に伝わる古文書群の中心的な家伝史料です。
同家が先祖と称する「前野氏の歴史」をまとめた書物として伝わっていました。
同書の存在は一般には知られていませんでしたが、1959(昭和34)年の伊勢湾台風において、吉田家の蔵が入水した際に見つかったとされます。
発見された当時は、前野氏・生駒氏・蜂須賀氏をはじめ信長・秀吉などについて、今まで知られていなかった新情報を得られる画期的資料として注目を集め、遠藤周作『男の一生』、津本陽『下天は夢か』など、同書を参考に新しい視点で書かれた小説がヒットしました。
しかしその後、吉乃の生家である生駒氏の子孫の方や複数の研究者が「同書は昭和になってから書かれた全くの偽書である」と指摘。一方で、小和田哲男をはじめとする歴史学者たちの中には、肯定の立場をとる人も多く、その論争は現在も続いています。
ここまで述べた通り、吉乃に関する資料は『武功夜話』以外には、ほとんど見られません。
ですから、その実像を考えるには同書の記述、生駒家の伝承などから迫って行くしかないのです。
実家の生駒氏は武家商人だった?
先ずは、吉乃という名です。
生駒家では彼女の戒名「久菴桂昌大禅定尼(きゅうあんけいしょうだいぜんじょうに)」から、「久菴(きゅうあん)」と呼び伝えてきたといいます。それは、同家の家系図には「女子」とだけの記載で名がなかったため、仕方なしにそう呼んでいたとのこと。
生駒家では、『武功夜話』に出てくる名も当初は「吉野」であったが、生駒吉野ではバランスが悪いので、「吉乃」という名に改ざんしたのではと考えているようです。
では、吉乃と信長との出会いは、どのような状況から生まれたのでしょうか。
吉乃の生家の生駒氏は、大和国平群郡生駒を本貫とする氏族です。先祖は平安初期の権力者・藤原良房で、その子孫が生駒に移り住みましたが、応仁の乱の際に、尾張国丹羽郡小折に移住したとされ、これが尾張生駒氏です。
一般には、尾張生駒氏は武士でありながら、傍らでは代々灰や油を商い、馬借として莫大な財をなした武家商人であるとされています。
この説について生駒家では「同家には商人であったという記録は全くなく、これも『武功夜話』のフィクションであり、江戸時代、尾張徳川家の家老を務めた同家を貶める話しだ」と反論しています。
また、同家では「生駒氏は商人そのものではないが、馬借の護衛くらいは引き受けていた可能性はある」と述べており、この辺りも見解が分かれるところです。
ここからは筆者の考えになります。
生駒氏は信長に仕えていた頃、1,900石を知行していたとされます。居城である小折城は、戦国期には名古屋ドーム約15個分の敷地を有していたといわれる、広大な城域を有する平城でした。
簡単に計算しますと1,900石の石高では、その動員兵数は100名足らずになります。その程度の勢力で名古屋ドーム約15個分の居城というのは、余りにも広すぎるとしか言いようがありません。
すると、やはり生駒氏は領土以外に富を得る手段として、武家商人として財を成していたと考えざるを得なくなるのです。
信長は、情報収集とその分析力に長けていた戦国大名でした。生駒氏が武家商人だとすると、小折城には全国からたくさんの商人や旅人が出入りしており、尾張における一大情報集積地となっていたはずです。
小折城は、信長の情報センターとして機能し、彼はここで諸国からもたらされる貴重な情報を得て、分析していたのではないでしょうか。
また、木曽川を管理する川賊である川並衆の蜂須賀小六や前野将右衛門を使い、情報収集活動を行なったのも、彼らが生駒氏の親族であるなら頷けます。
小六らは、1560(永禄3)年の桶狭間の合戦時にも仲間や配下を使って、今川軍の動きと、刻々と変化する戦況を信長に知らせていました。
そして、情報をもとに奇襲戦を敢行した信長が今川義元を討ち取って勝利しました。
この戦いの勲功第一は、義元の首を取った武士ではなく、今川軍の本陣の位置を信長に知らせた梁田政綱とされました。
信長が、いかに情報戦を重要視していたかが理解できるでしょう。
また、信長は父・信秀から萱津の甚目寺(じくじも)門前市の権利を引き継いでいました。当
時、定期市は多くの人と情報が集まる場でした。後に、信長が城下町で行なう楽市・楽座も、経済活動はもとより、情報収集の場として大いに活用したことでしょう。
このように戦後時代は大名と言えども、定期市や港などを管理し、商業活動を積極的に行っていました。武士が商業を卑しいものと見なすようになったのは、江戸時代に幕藩体制をベースにする身分制度の維持のために、朱子学を奨励した影響から起きたことです。
ですから信長からすると、生駒氏はその戦略上とても大切な家臣であるとともに、吉乃もまた正室・濃姫に匹敵する存在であったと考えられるのです。
晩年は信長と共に小牧山城で暮らした
生駒吉乃は、徳姫を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、健康を害していたとされます。
そして、1566(永禄9)年に亡くなります。享年は39とも29とも言われ、その没年さえもはっきりしていません。
『武功夜話』によると、信長は美濃攻略のために1563(永禄6)年に築いた小牧山城に、吉乃の身を移すよう生駒家に命じました。しかし、この時には吉乃の病状が重く、そのため信長自ら生駒屋敷に赴き、側室の身分では乗ることはできない輿に乗せ、小牧山に迎えたとされます。
そして、城内の御殿で家臣たちの拝謁を受けたとされています。
そうなると吉乃は小牧山城で3年間暮らし、城内で亡くなった後、生駒氏の菩提寺久昌寺に埋葬されたことになります。もちろんこの間、信長の正室濃姫(帰蝶)は健在で、同じ小牧山城で暮らしていたのでしょう。
濃姫は、1554(天文23)年に、信長と塙直政の妹・直子の間に生まれた於勝丸(後の織田信正)を嫉妬から追い出しています。
この頃の濃姫は、信長後宮を正室として取り仕切り、信長の側室たち・子供たちの面倒を統括していました。
吉乃の子の信雄、徳姫、あるいは信忠も、その中にいたと考えて問題ないでしょう。
側室ながら信長の覇道を支えた女性
吉乃は、夫が討死してまもなく実家の小折城で信長と出会い、その側室となります。そして、少なくとも信長との間に、信雄・徳姫をもうけ、晩年は小牧山城で過ごし、その生涯を閉じました。
生駒吉乃という女性を考える時、側室という身分でありながら、正室同様な重々しさを感じさせるのは、信長の後継者たる子供たちの母であり、信長の戦国大名としての強さを支えた生駒氏の娘という、その立場にあると考えられます。
もちろん、吉乃の生涯を語るとき、その多くは謎に包まれたままです。
しかしながら吉乃もまた、稀代の戦国大名・織田信長の天下布武への覇道を支えた女性であったといえるでしょう。
参考 : 『武功夜話』
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