2026年の大河ドラマは「豊臣兄弟」である。
物語は豊臣秀吉と、その弟である豊臣秀長を中心に展開されるようだ。
主人公の秀長は史実的な悪評も少なく、その人柄の良さから「聖人」のように称されることもある。
今回は、そんな秀長に見出され、最終的には大名にまで大出世した藤堂高虎と、秀長の関係について触れていきたい。
目次
豊臣秀長という偉大なるNo.2
豊臣秀長は、その生涯を通じて秀吉の補佐役を務めた武将である。
秀吉の天下統一を間近で支え、千利休と並んで豊臣政権の中枢を担う重要な存在であった。
1586年、九州の大名・大友宗麟が島津氏の圧力を訴えに来た際、秀吉は宗麟に対して「内々の儀は宗易(千利休)に、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と伝えている。この言葉からも、秀長が豊臣政権内で絶大な権力を持っていたことが窺える。
秀長の死後、秀吉は朝鮮出兵を敢行し失敗したが、秀長は朝鮮出兵に反対していたという。
その後、豊臣家は徐々に弱体化し、最終的には滅亡してしまう。
もし秀長が長生きしていれば、豊臣家は続いていたのではないか、という説も根強い。
藤堂高虎は、主君をたびたび変えた築城名人
秀長の腹心として、最終的には大名にまで出世した藤堂高虎は、一体どのような人物であったのか。
元々は近江の下級武士の出身であり、身長190cmを超える大柄な体格を持ち、気性が荒かったという。
若い頃には同僚を斬り殺すなど問題行動が多く、主君を次々に変えていた。
織田信長の甥・津田信澄に仕えたものの、折り合いが悪かったようで、俸禄は80石のままで馬を飼うこともできなかったため、信澄の元からも去っている。
しかし高虎は、ある時からその才能を発揮し始めた。戦で武功を立てて家老に出世し、その後も手柄を重ねて大名となった。
朝鮮出兵では水軍としても活躍し、新しい建築技術を開発して築城を繰り返し、最終的には徳川幕府から外様の筆頭として信頼を置かれ、戦の一番手を任されるまでに至ったのである。
何が高虎をここまで変えたのだろうか。
超問題児を300石で雇った秀長
1573年、近江の大名であった浅井長政が信長に滅ぼされ、近江の地は羽柴(後の豊臣)秀吉の領地となった。
その際、秀吉と共にやってきたのが秀長である。この近江は高虎の出身地でもあった。
1576年、高虎が秀長を訪ね「家来として雇ってほしい」と願い出た。俸禄は津田信澄に仕えていた頃と同様の80石以上を希望していたという。
しかし、秀長はこの問題児を驚くことに300石で雇った。高虎もこれには面食らっただろう。
なぜ秀長は、このような高禄を与えたのか。それはおそらく、高虎の槍働きの腕を高く評価していたからであろう。
この頃、信長はまだ存命であり、秀吉は多くのライバルと手柄を競い合っていた。中国地方で毛利氏と戦う計画もあり、農民出身で家来が少ない秀吉にとって、強い武将は喉から手が出るほど必要だったのである。
秀長の元で、ぐんぐん成長する高虎
秀吉はその後、中国攻めを行い、本能寺の変からの中国大返し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど、激しい戦が続いた。
高虎は秀長の元でこれらの戦に参加し、期待通りの働きを見せた。
しかし、秀長は高虎に戦場以外の任務も与えた。自身の重要な城である和歌山城の普請奉行を命じたのである。
高虎はこの任務を見事にやり遂げ、その才能を発揮した。彼は後に「築城名人」と称されるようになるが、そのきっかけを与えたのは秀長であった。
和歌山城は現在でも和歌山のシンボルとなっている。
その後、秀長から粉河の領地を与えられ、高虎は1万石の領主にまで出世したのである。
秀長の養子を高虎の養子に
秀長と高虎の間では、養子のやり取りも行われた。
秀長には三人の子供がいたが、大事な長男は早世し、残りの二人は女の子であったため、跡取りが必要であった。
秀吉はこのため、秀長の養子として丹羽長秀の三男である仙丸を与えた。
しかし、丹羽家が力を失うと、秀吉は秀長の跡取りを血の繋がらない子供に与えるのが嫌になり、新しい養子として秀吉・秀長の姉の子である秀保を迎えさせた。
これにより、仙丸は行き場を失うことになった。
秀長は仙丸の処遇に困ったが、ここで高虎が救いの手を差し伸べた。高虎にも子供がいなかったため「仙丸を養子に迎えたい」と申し出たのである。
秀吉の許しを得た後、仙丸は藤堂家の養子となった。後の藤堂高吉である。
秀長の死去、大和大納言家の滅亡、そのとき高虎は
高虎は秀長の元で家老にまで出世し、二人の関係も良好だった。
しかし1591年、秀長は52歳で病死してしまった。跡を継いだ秀保も17歳の若さで死去し、秀長の家は断絶してしまったのである。
その後、多くの同僚が秀吉に仕えたが、高虎はそうしなかった。
彼は秀長の死に大きなショックを受け、高野山に出家し武士を辞めてしまったのである。
高虎にとって、いかに秀長が特別な存在であったかが窺える。
しかし、秀吉はこれを許さず、使者を送り高虎を還俗させた。その後、領地を与え高虎を大名にした。
秀吉は、高虎の才能を惜しんだのであろう。
秀長の恩を忘れなかった高虎
その後、秀吉が死去し、徳川家康が台頭して江戸幕府が成立した。
高虎は時代の荒波を見事に生き抜いたが、秀長のことを決して忘れることはなかった。
秀長の菩提寺である大光院は、もともと大和郡山にあったが、秀長の家が断絶した後、高虎が京都に移した。
高虎はその後も大光院を訪れ続け、設備の修復などに尽力したという。秀長の死後34年が経過してもなお、大光院を訪れた記録が残っている。
さらに高虎の死後も、藤堂家は江戸時代を通じて大光院の援助を続けた。
おわりに
豊臣秀長は非常に評判の良い武将である。多くの人が、秀吉の出世は秀長の尽力によるものだと評価している。
一方、藤堂高虎は主君を次々に変えた変節漢として、悪評がつきまとっている。
しかし、この主従関係は振り返ってみれば素晴らしいものである。お互いを信用し、助け、引き上げ、秀長の菩提寺は豊臣家が滅んだ後も守られ続けた。
大河ドラマでは、二人の関係がどのように描かれるのか、注目して見てみたい。
参考:戦国人物伝 藤堂高虎 他
文 / 草の実堂編集部
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