安土桃山時代

石田三成は、なぜ「襲撃」を受けるほど嫌われたのか? 【三成襲撃事件】

画像 : 関ヶ原の戦い public domain

石田三成は、天下分け目の戦いとされる「関ヶ原の戦い」において、豊臣方の西軍を率いて徳川家康率いる東軍と戦って敗北し、処刑されたことで知られている。

そんな三成は、あまり人望が無かったとされている。
当時から周囲の三成への恨みは根深く、それが「関ヶ原の戦い」にも大きく影響した。

なぜ三成は、そこまで嫌われていたのだろうか。

関ヶ原の戦い勃発の背景

画像 : 豊臣秀吉 public domain

豊臣秀吉が死去すると、天下は不安定な状況に陥った。

多くの武功派武将は、依然として朝鮮出兵に従事していたが、秀吉の側近である三成をはじめとする奉行たちは、国内の安定を図るための対応に追われていた。

秀吉は、息子の秀頼に権力が円滑に継承されるように「五大老・五奉行」という体制を遺していた。
この制度には、徳川家康が五大老の筆頭として、石田三成が五奉行の一員として参加していた。

三成は豊臣家の結束を図り、朝鮮出兵から帰国した武将たちに「豊臣家のために一致団結し、秀頼公を支えよう」と呼びかけたものの、その願いは叶わなかった。

これは、三成が武功派の武将たちから嫌われていたためである。

三成の冷徹な性格や行政手腕が、戦功を重んじる武将たちの反感を招いていたのだ。

このような状況の中、家康は巧妙に自身の勢力を拡大していった。三成を嫌う武功派の武将たちと手を結び、次第に豊臣家内での発言力を強めていった。

一方で、孤立を深めた三成は蟄居となり、これが後に関ヶ原の戦いへと繋がる序章となったのである。

石田三成が人望を失った理由

画像:秀吉公と石田三成公 出逢いの像 wiki c 立花左近

なぜ三成は嫌われたのだろうか。その原因は普段の態度にあったとされる。

三成は、秀吉に対して強い忠誠心を持っていた。
元々は「寺で学んでいた一介の少年」でしかなかった三成を見出し、天下の政務に関与するまでに育て上げたのは他ならぬ秀吉である。

この深い恩義ゆえ、秀吉に対して忠実であろうとしすぎるあまり、他の武将たちに対して厳格かつ冷淡な態度を取ることが多く、これが反感を招く一因となっていた。

たとえばこんなエピソードがある。

ある10月、毛利輝元は季節外れの桃を「珍しいものだからぜひ」と秀吉に献上しようとした。
しかし、仲介役である三成は「季節外れの桃を食べて、太閤殿下が体調を崩されたらどうするのか」と、これを突き返してしまったという。

輝元は中国地方を治める有力な大名であり、五大老の一員でもあった。

三成にとっては、秀吉の健康を守るための正しい判断であったが、このような杓子定規な態度は、周囲の大名や武将たちから「融通が利かない」として反感を買った。

このように、三成の忠誠心は評価される一方で、その厳格さや不器用さが嫌われる要因となっていたのである。

豊臣子飼い武将たちとの対立

秀吉は、低い身分から天下人へと成り上がったため、譜代の家臣を持つことができず、優秀な若者たちを自ら登用して育て上げた。

画像 :福島正則 public domain

この「子飼い」と呼ばれる武将たちの中には、三成がいた。しかし、三成は他の「子飼い」の中でも、特に加藤清正福島正則といった武断派(豊臣政権で軍務を担った諸将たち)から反感を抱かれていた。

三成は、主に行政手腕を発揮する文治派として活躍し、太閤検地や刀狩など、豊臣政権の重要な政策を実行して大いに貢献した。

しかし、戦場では主に後方支援で華々しい戦功には恵まれず、三成が指揮を執った「忍城攻め」では攻めあぐね、軍事的な評価は低かった。

一方、加藤清正や福島正則は戦場での武勇を誇る武断派であり、特に賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」として功名をあげている。

しかし、秀吉が天下統一を果たしたことで戦は減少し、行政手腕が重視されるようになった。これにより、三成のような文治派の武将が指示を出す立場となり、武断派の武将たちとの間に緊張が生まれたのだ。

特に福島正則は、三成に強い敵意を抱いていたとされている。

画像 : 加藤清正 public domain

また、三成は大名として高い石高を持っていたわけではない。近江佐和山城の城主として19万4000石を治めていたが、その石高に似合わず大きな権力を持っていた。
それは秀吉の側近、代理として権力を行使していたからである。他の武将たちからは「虎の威を借る狐」のように映ったことだろう。

特に、朝鮮出兵における出来事は、加藤清正との対立を決定的なものとした。

清正をはじめとする武断派の面々は朝鮮の最前線で戦ったが、三成はその様子を秀吉に代わって監視し、報告する立場だった。

ある時、三成の報告を受けた秀吉は、清正の軍事行動に不満を抱き、厳しく叱責し、蟄居を命じた。
清正にとっては納得のいかない話であった。

この処分に対し、清正は「三成の報告が原因だ」と怒り、強い敵意を抱くようになったとされている。

石田三成襲撃事件

画像 : 石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町) public domain

秀吉の死後、武断派の武将たちの長年の不満が一気に爆発し、ついに「三成襲撃事件」が勃発した。

襲撃を計画したのは、武断派の歴戦の名将たち7人であった。

資料によってメンバーに違いはあるが、家康の書状によると以下の人物である。

・加藤清正
・福島正則
・浅野幸長
・黒田長政
・蜂須賀家政
・藤堂高虎
・細川忠興

※池田輝政、加藤嘉明が入る場合もある

彼らの多くは朝鮮出兵で戦った者たちで、三成の讒言(蔚山城の戦いにおいての報告内容)によって不利益を被ったとして、三成を打ち果たそうと屋敷まで押しかけた。

三成は運良く事前に察知し難を逃れ、家康の仲介で命は助かったが、ひどく落ち込んだという。

両者には大きな溝が残り、その後の関ヶ原の戦いへと繋がっていくのである。

おわりに

石田三成は、襲撃を受けるほど嫌われていた。

だが三成が悪人だったかというと、そうではないだろう。
実直すぎるが故に融通がきかないという欠点はあったが、誰よりも忠義に厚い人物だったといえるだろう。

戦国の世においては清廉潔白すぎたのかも知れない。

参考:『石田三成伝』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部

この記事はデジタルボイスで聴くことができます。

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【異形の怪物たち】神話を彩る恐ろしい合成獣の伝承 ~地中海編
  2. 立花道雪・生涯無敗の雷神【武田信玄も対面を希望した戦の天才】
  3. 【後北条家は滅んではいなかった】 北条氏直 〜秀吉に許された北条…
  4. 大坂城を落としたのは結局、誰なのか調べてみた
  5. 「槍の又兵衛」と呼ばれた高田又兵衛「宮本武蔵も認めた宝蔵院槍術の…
  6. 最期まで呑気な藤原惟規(高杉真宙)僧侶も呆れた彼のコメント【光る…
  7. 吉田城へ行ってみた【続日本100名城】
  8. 竹中半兵衛・秀吉が三顧の礼で招いた軍師

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【相撲は女人禁制ではなかった】 大人気だった女相撲の歴史 ~女大関・遠藤志げの

見世物の女相撲女相撲とは、女性の力士による見世物の相撲である。延享元年(1744…

戦艦の歴史を変えた弩級艦・ドレッドノート

戦艦ドレッドノートドレッドノート(Dreadnought)は1906年12月に就役したイ…

ミッドウェー海戦 ~わかりやすく解説【負けるべくして負けた】

1941年12月、真珠湾への攻撃によってアメリカ太平洋艦隊の主力艦艇を壊滅させた大日本帝国海軍は、そ…

戦国大名としての織田氏(2)

―本能寺の変以降の織田氏―1. はじめに「戦国大名としての織田氏(1)―…

【月に名前を残した江戸の天文学者】 麻田剛立 ~ケプラーの法則を自力発見し日食を的中させる

麻田剛立とは麻田剛立(あさだごうりゅう)とは、江戸時代の中期に活躍した日本の天文学者であ…

アーカイブ

PAGE TOP