石田三成は、豊臣秀吉の側近として政権運営に大きく貢献した。
しかし、秀吉の死後、政権は不安定になり、三成と徳川家康との対立が激化し「関ヶ原の戦い」へと発展した。
三成はこの戦で敗北し、逃亡を図るも捕えられ、最終的には家康の命により処刑された。
三成には複数の子供がいたが、彼らは関ヶ原の敗戦後にどのような運命を辿ったのだろうか。
目次
関ヶ原の戦いで敗北、三成の居城は火の海に
石田三成の居城であった近江の佐和山城には、父・石田正継、兄の正澄、そして正室の皎月院が住んでいた。
関ヶ原の戦い後、家康はすぐに小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせた。三成は逃亡中で行方知らずだったこともあり、佐和山城で籠城されたら困ると判断したのだろう。しかし三成は佐和山城には戻っていなかった。
佐和山城は火の海となり、落城した。
父・正継は自害し、兄・正澄もまた命を絶った。そして正室の皎月院は、三成の家臣によって刺殺された。
三成自身もその後、逃亡中に捕らえられた。
三成の子供たちは、親族をほぼ全員失ってしまったのである。
長男・重家は長生きした or 殺害された?
三成の長男・重家は、関ヶ原の戦いが勃発した頃、大坂城にいたとされる。
西軍が敗北したとの報せを受けると、重家はすぐに大坂城を離れたが、その後の動向については複数の説が伝わっている。
1、重家は妙心寺に助けを求め出家。助命嘆願によって家康に許され、100歳前後まで生きた。
2、同じく妙心寺で出家し、家康に許されたが、晩年に還俗して岸和田藩主の岡部宣勝(おかべのぶかつ)の庇護を受けて生活した。
3、妙心寺ではなく高野山に逃亡したが、殺害された。
どちらにせよ、石田家の跡を継ぐ事はできなかったのである。
次男・重成は忍者を統率した?
三成の次男・重成は、豊臣秀頼に小姓として仕えていた。しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、重成は危機的な状況に追い込まれる。
そんな重成を救ったのが津軽家であった。小姓仲間であった津軽信建(つがるのぶたけ)が彼を助けたのである。信建は、重成と共に大坂城を脱出し、津軽に向かい、重成は津軽家で保護された。また、後の1610年頃に、妹の辰姫も津軽家に嫁いでいる。
その後、重成は三成の子であることを隠すために「杉山源吾」と名を改め、津軽家の深味村(現・青森県板柳町)で身を潜めながら暮らしたとされている。
一説には、杉山八兵衛と名を変え津軽家に仕官し、侍大将にまで昇進したとも伝わっている。
また、津軽家で忍者を統率したという伝承や、藤堂高虎に仕えたという説もあるが、詳細については定かではない。
重成には子があり、長男の吉成は弘前藩主・津軽信枚の娘を妻に迎え、家老職を務めた。
吉成の子孫は代々、杉山家として弘前藩の重臣として仕え続けた。
三男・佐吉は、家康に許され出家
三成の三男・佐吉は、佐和山城にいた。
佐和山城が戦火に包まれた際には、当時石田家に仕えていた津田清幽(つだ きよふか)の助けを得て、城から脱出した。
清幽の働きかけにより、佐吉は家康の元に出頭する。
家康は佐吉を許し、高野山の僧侶・木喰応其(もくじきおうご)のもとで出家させた。
応其は、佐吉に津田清幽の恩義を忘れないようにと「深長坊清幽」という法名を授けた。
その後、清幽は甲斐国の薬王寺に送られ、寛永年間には薬王寺の16世住職として勤めた。
80歳近くまで生きたとも伝えられている。
辰姫は、津軽家で石田の血を繋ぐ
前述したように、三成の三女・辰姫は津軽家に嫁いだ。
辰姫は1610年頃に、津軽為信の三男で弘前藩第2代藩主・信枚(のぶひら)の正室として迎えられた。
しかし突然、家康が自身の養女を信枚の妻とするように求めてきた。
家康を恐れた信枚は、辰姫を側室に格下げし、家康の養女を正室として迎えた。
しかし、辰姫には平蔵という息子がいた。
この石田三成の孫にあたる平蔵が、津軽信義(のぶよし)となり、信枚亡き後の津軽家を継いだのである。
徳川家光に嫁いだ三成のひ孫・お振の方
三成の子孫には徳川家に嫁いだ女性がいる。徳川家光の初めての側室・お振の方(自証院)である。
お振の方は三成のひ孫である。三成の娘が岡半兵衛重政に嫁ぎ、岡吉右衛門を産んだ。その吉右衛門の娘がお振の方である。
お振の方は、母が大奥の老女として仕えていた関係で、春日局の養女となり、大奥に入ったとされる。
家光は男色を好むことで知られ、女性に対する興味が薄かったため、春日局はお振の方に男装をさせて家光に接近させた。
この作戦が功を奏し、お振の方は家光の最初の側室となり、最初の子、千代姫を産んだ。
しかし、お振の方は産後の体調が思わしくなく、出産から3年後に亡くなってしまった。
おわりに
三成の子は他にも何人かいるが、ここでは特に重要な人物に焦点を当てた。
いずれも「関ヶ原の戦い」の敗北に大きく影響を受け、運命を左右された。
石田家としての勢力は消滅したが、重成やお振の方のように、彼らの血筋は時代を超えて受け継がれ、歴史の中に名を残している。
参考:『石田三成とその一族』『歴史道』
文 / 草の実堂編集部
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