安土桃山時代

『三成に過ぎたるもの』行方不明になった猛将・島左近 ~関ヶ原で東軍が恐怖した逸話

島左近

画像:嶋左近 嵐璃寛 public domain

三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という俗謡がある。

豊臣秀吉に長く仕え、側近として重用されてきた石田三成だが、彼には手に余るほど素晴らしいものが二つあったというのだ。

それが、家臣の島左近と居城の佐和山城である。

今回は、その一つである島左近について詳しく見ていきたい。

島左近の出身は?

画像 : 島左近 public domain

島左近(しまさこん)は、石田三成の家臣として仕えた猛将である。

本名は島左近清興(きよおき)。通称は左近で、清興が諱(いみな)だが、ここでは左近と記す。
他にも勝猛という名も伝わっており、天文9年(1540年)生まれである。

左近の出身地については、近江(滋賀県)、尾張(愛知県)、対馬(長崎県)、大和(奈良県)の4説がある。近江坂田郡には館跡が残っているが、確証となる一次資料は確認されていない。

最も有力視されているのは、大和(奈良県)にある椿井城と西宮城を本拠とした島家の出身という説である。

島家は奈良の武士を束ねる筒井家に仕えており、左近もその重臣である筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた。

画像:筒井順慶 public domain

筒井順慶は、松永久秀との間で筒井城をめぐる激しい攻防戦を繰り広げていた。この際、左近は通称が「右近」であった松倉重信とともに「筒井の左近右近」と称され、筒井家においてもその実力が知られていた。

しかし、順慶が亡くなり、甥の定次が家督を継ぐと、左近はなぜか筒井家を去ってしまう。

これには諸説があり、定次への失望や性格の不一致、さらには重臣とのトラブルが原因とされる。

一説には、灌漑用水を巡る問題で左近が他の重臣と対立し、定次がその際に左近を支持しなかったため、左近は失望して筒井家を離れたとも言われている。

島左近の士官先

画像 : 蒲生氏郷像 public domain

筒井家を去った後の左近の仕官先には、蒲生家と豊臣家の二つの説がある。

蒲生氏郷に仕えたとされる説は、奈良の興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』に基づいている。この日記には、天正十八年(1590年)5月に伊勢亀山城で島左近の妻に会ったという記述が残されている。

一方、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えたという説もあり、秀長の病没後に、その養子である秀保に仕えていたとされる。『武家事記』

石田三成との出会い

画像:秀吉の右筆や取次を務めた石田三成 public domain

石田三成と島左近の出会いについても、諸説ある。

左近は優秀な武将としてさまざまな大名から士官の誘いを受けていた。その中で三成も左近に仕官を求めたが、左近は他の誘い同様、断るつもりだった。

しかし、三成はなんと「自分の禄の半分を譲る」と申し出た。
当時、三成の所領は4万石だったため、その半分にあたる2万石を左近に与えるという破格の待遇であった。左近はこれに感激し、三成に仕えることを決意したという。『常山紀談』

別の説では、三成が佐和山19万石を得てから左近が仕官したとも伝わるが、いずれにせよ、三成が左近を高く評価していたのは確かであろう。

秀吉の小田原征伐の頃には、左近はすでに三成の重臣として活動しており、その後の朝鮮出兵にも三成に従って同行している。

関ヶ原の戦いでの活躍

画像 : 島左近陣跡(関ヶ原) wiki cc Snap55

三成は実戦経験が乏しかった。そのため、戦場では常に左近が三成を支え、補佐していた。

1600年、三成が徳川家康と対峙し「関ヶ原の戦い」が勃発すると、左近は大いに活躍した。

関ヶ原の戦いの前日、家康率いる徳川軍が美濃の赤坂に突如姿を現すと、西軍の士気は急速に下がってしまった。
これを見た左近は、士気を取り戻すために500の兵を率いて東軍に奇襲を仕掛けた。

この奇襲で左近は中村一栄や有馬豊氏らと戦い、見事に勝利を収めた。「※杭瀬川の戦い」

画像:島左近陣跡(関ヶ原)イメージ

左近は、関ヶ原本戦でも大いに活躍した。

三成は軍勢を分け、その一隊を左近に託して東軍の黒田長政、加藤嘉明、田中吉政の部隊に正面から挑ませた。

この戦いは熾烈な銃撃戦となり、左近の勇猛さに東軍は恐怖を覚えるほどであったという。

『常山紀談』には、後に黒田軍の者たちが左近と対峙したときの恐ろしさを語り合っている逸話がある。

「石田が侍大將、鬼神をも欺くと言ひける島左近がその日の有樣、今も猶目の前にあるが如し」

と言ひけるに、その物具のことを言ひ出して更に定かならず。

「近々と詰め寄せたるに見覺えざること、よく狼狽へたるよ。口惜しきことなり」 『常山紀談 関ヶ原合戦島左近討死の事』

現代意訳
「石田三成の侍大将で、鬼神をも欺くと評された島左近のその日の様子が、今でも目の前にあるかのようだ」と語ったが、その際の鎧や装備については誰も正確には思い出せなかった。

「あれほど間近に詰め寄ったのに見覚えがなかったとは、なんと狼狽していたことか。実に悔しいことだ」と話した。

つまり、「左近がどのような甲冑を身につけていたか思い出せないほど、恐怖で我を失った」という逸話である。

『常山紀談』は、江戸時代中期に書かれた逸話・軍談集で、史料としての信頼性は限定的ではあるが、当時の人々の左近に対する評価や印象を垣間見ることはできるだろう。

この戦闘では左近の軍にも多くの死傷者が出たが、左近は最後まで戦い続け、やがてその姿は戦場から消えてしまった。

左近はどこへ?

画像:島左近手配書(京都太秦映画村) ※筆者撮影

関ヶ原の戦い以降、島左近の行方は謎に包まれているが、戦場で命を落としたという説が最も有力である。

『関ヶ原合戦大全』や『黒田家譜』には「銃撃を受けてその場で死亡した」という記述が見られ、一方で「銃撃を受けたが再度出陣し戦死した」とする説もある。

また、生還説もあり「対馬へ脱出した」とするものや、「関ヶ原の戦い後に京都に潜伏し、寛永9年(1632年)に没した」とする説もあり、京都で左近を目撃したという証言も相次いだという。

実際に、徳川側に彼の首級が届けられたという記録はなく、左近の最期は不明なのである。

おわりに

画像 : 左近のものとされる墓(対馬の島山島) wiki cc Snap55

島左近の墓は、奈良県や京都府、対馬、陸前高田など日本各地に複数残されており、静岡県や広島県、熊本県、滋賀県などにも彼にまつわる伝説が伝わっている。

こうした状況からも、左近が関ヶ原で本当に命を落としたのか、あるいは生き延びて各地を転々としたのか、謎は深まるばかりである。

もし左近が生き延びていたら、京都で市中引き回しの上処刑されてしまった三成をどのように思ったのだろうか。
また、もし西軍が勝っていたら、左近は三成の側近としてその後どんな活躍をしたのだろう。

今も左近は、行方不明のままである。

参考:『常山紀談』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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