
画像 : 豊臣秀吉と秀長 public domain
「二匹の猿」……。
初回は、そんなタイトルで始まった、2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。
農民出身から天下人へ駆け上がった兄、その兄を支え続けた思慮深い弟という兄弟の絆と奮闘のドラマです。
そして、このドラマティックな兄弟の出世物語の背後には、語られることの少ない存在もいます。
それが、秀吉の姉「とも」と妹「あさひ」という二人の豊臣姉妹です。
彼女たちは戦場を駆けることも、政の場で差配を振るうこともありませんでしたが、歴史の傍観者だったわけでもありません。
姉妹の人生もまた、豊臣家の栄光に結びついていたのです。
今回は、姉・ともに焦点を当て、波乱に満ちた生涯と悲劇的な結末をたどります。
3人の息子を育て上げたしっかり者の姉「とも」
『豊臣兄弟!』の公式サイトでは、姉・とも(宮澤エマ)について、次のように紹介しています。
〜兄弟に厳しくあたるしっかり者の姉〜
豊臣兄弟の姉。しっかり者で負けん気が強い。三人の男児を産み育てるが、跡継ぎに恵まれなかった弟の秀吉によって政治の道具として利用される。のちに秀吉の後継者となった長男の秀次は謀反の疑いをかけられ、妻子とともに処刑されることになる。
ドラマの第1回では、そんな設定を象徴するような場面が描かれています。
戦になり村人たちが戦地へ向かう中で、ともは
「どうせ目当ては戦場での盗み。わしは盗人にはならん!」と出向かない弟の小一郎の頭を殴り、「甘ったれたことを言うな。銭や食い物を取ってこい!」と叱り飛ばします。
物語の中のともは、家族の中で厳しく、現実を見ている存在として描かれています。

画像:農民 ac-illust 栗原工房
姉ともの出自と出産
史実としてのとも(のちの日秀尼)は、天文2〜3年(1533〜34年)頃、尾張中村(現在の名古屋市中村区)で生まれ、足軽の木下弥右衛門となかの娘と伝えられています。
弟の秀長や、妹のあさひは別の父という説もありますが、瑞龍寺に伝わる寺伝史料では、父の没年が天文12年(1543年)とされており、この年にあさひが生まれていることから、近年では兄弟4人は同じ父を持っていたと見る説も有力になっています。
織田信長と同世代であり、弟の秀吉より数歳上の長姉でした。
やがて、ともは弥助(のちの三好吉房)と結婚し、秀次、秀勝、秀保という3人の男子をもうけました。
かつて彼女の出産は、第一子の秀次を35歳、第三子の秀保を46歳で産んだ、異例の高齢出産として語られてきました。
しかし近年では、長男・秀次の生年は通説の1568年ではなく、1564年頃とする説も有力視されています。
いずれにせよ、彼女が比較的高い年齢まで出産を続けていたことは確かでしょう。
天正19年(1591)、長男の秀次が関白に就任すると、ともは夫とともに聚楽第に移り、政権中枢の一角に身を置くことになりました。
前年に秀吉は実子の鶴松を失っており、秀次は豊臣家の後継者として、あらためて秀吉の養子に迎えられます。
かつて尾張の寒村で暮らしていたともは、この時点で「天下人の姉」であり「関白の母」という、女性としてこれ以上ない地位にまで上りつめていました。
しかし、その栄華こそが、やがて訪れる凄絶な悲劇の入口でもあったのです。

イメージ画像
「天下人の姉」となるも、数年のうちに3人の息子を失う
文禄2年(1593)、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生します。
これを境に、関白として政権の中枢に立っていた秀次の立場は、急速に不安定なものになっていきました。
文禄4年(1595)6月末、秀次に謀反の疑いが取り沙汰されます。
信長や秀吉に仕えた記録係だった太田牛一の『太閤さま軍記のうち』は、鷹狩りを口実に山中で謀議を重ねているという噂が広まったと伝えています。
しかし、この謀反説は当時から疑わしいと見られており、秀頼誕生によって秀次の立場が危うくなったこと、石田三成による讒言、秀次の日頃の素行など、さまざまな説があります。
やがて秀次は伏見への出頭を命じられ、高野山に送られた末に切腹しました。
さらに妻子や近親者30余名も京都・三条河原で処刑され、後に「豊臣秀次切腹事件」と呼ばれる大粛清となります。

画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次 public domain
ともにとっては、関白となった長男とその一族が一挙に奪われる、あまりにも苛烈な結末でした。
夫の三好吉房も連座して讃岐国へ流されています。
しかも、ともを襲った不幸はこれだけではありません。
文禄元年(1592)には、次男の秀勝が朝鮮出兵の陣中で病没し、24歳で世を去りました。
さらに文禄4年(1595)には、秀長の養子となって「大和中納言」と呼ばれ、豊臣一門衆の筆頭格にまで上りつめていた三男の秀保も急死します。秀保は、17歳で亡くなったと伝えられます。
こうしてともは、地位と将来を得た3人の息子を、わずか数年のうちに次々と失いました。
天下人の姉、関白の母として得た栄華は、取り返しのつかない喪失へと変わっていったのです。
息子の菩提を弔いつつ92歳まで生きた、とも

画像:豊臣秀次の菩提寺 本丸への虎口跡 wikic ブレイズマン
夫と息子たち、そして多くの孫を一度に失ったともは、文禄5年(1596)正月、出家して日秀尼(にっしゅうに)となりました。
同年、京都村雲の地に瑞龍寺を開き、秀次一族の菩提を弔う道を選びます。
それは、あまりにも悲し過ぎる現実からの逃避だけではなかったでしょう。失った息子たちの菩提を弔いながら、自身の身を守り生き延びるための選択だったのかもしれません。
慶長3年(1598)8月18日、日秀尼は弟・秀吉の最期を見届けます。
さらに慶長17年(1612)には、讃岐に流されていた夫・三好吉房が死去し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣で豊臣家が滅亡しました。
豊臣方についた山口兵内の妻となっていた孫娘・菊も、このとき処刑されています。
一族の栄華と滅亡、そのすべてを見届けながら生き続けた日秀尼は、寛永2年(1625)4月に没しました。享年92。
その生涯は、豊臣政権の輝きの背後にあった、もう1つの過酷な物語でもあったのです。
※参考
『豊臣兄弟と天下統一の舞台裏』 青春文庫
『豊臣兄弟! 前編』 (NHK大河ドラマ・ガイド)
太田牛一『太閤さま軍記のうち』他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部























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