
画像 : 藤堂高虎 public domain
主君を替え続けた男
藤堂高虎といえば「主君を何度も替えた武将」として知られています。
浅井長政に始まり、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄のもとを転々とし、20歳までに4人の主に従いました。
武勇に優れていましたが気性が荒く、待遇への不満や主家の没落などを契機に、次々と主君を替えていったと言われています。
天正4年(1576年)、高虎は羽柴秀長のもとに身を寄せます。このとき21歳。
ここから15年にわたり、高虎は秀長の傍らを離れませんでした。
転々としていた男が、初めて腰を据えて仕えた相手が秀長だったのです。
秀長のもとで開花した才覚

画像:高虎が仕えた豊臣秀長。今年のNHK大河ドラマの主役。 public domain
秀長は、兄・秀吉の右腕として知られた人物です。
派手な武功よりも領国経営や調略に長け、豊臣政権の内政を陰から支えました。その秀長のもとで高虎は武将としてだけでなく、実務の才覚を磨いていきます。
天正5年(1577年)、秀長が三千の兵を率いて但馬へ侵攻した際、高虎は竹田城攻略で奇襲に功を立て、千石を加増されました。
翌年以降も播磨・丹波の戦線に従軍し、天正8年(1580年)の三木城攻めでは、敵将・賀古六郎右衛門を討ち取ったと伝えられています。
秀長に仕え始めた頃はわずか三百石でしたが、天正9年(1581年)には十倍の三千三百石にまで加増されました。
高虎の才覚は戦場だけにとどまらず、天正13年(1585年)、秀長が紀伊国を与えられると、高虎は和歌山城の築城奉行を命じられます。
これが高虎にとって初めての築城となりました。

画像:和歌山城 wiki c Saigen Jiro
秀長が求めたのは軍事拠点の役割だけではなく、領内の物流を掌握し、民を統治するための心臓部として、城をいかに機能させるかでした。
秀長のもとで学んだ「領国経営としての築城術」は、のちに家康から絶大な信頼を得る原点となります。
同年の四国征伐でも総大将の秀長に従い、軍事と後方支援の両面で力を発揮しています。
秀長は高虎に武勇だけでなく、兵術や算術、そして人を束ねる術を教えたと伝わります。
後年になり「築城の名手」と呼ばれる高虎の原点は、この時期に培われたものでした。
主君の死、そして高野山へ
天正19年(1591年)、秀長は52歳で病没します。高虎は36歳になっていました。
秀長の跡を継いだのは甥の豊臣秀保(ひでやす)でしたが、高虎は引き続き秀保に仕え、文禄の役では大和豊臣家の水軍を率いて出征しています。
しかし文禄4年(1595年)、秀保も17歳で急死。大和豊臣家は断絶しました。

画像:豊臣秀保 public domain
主家を失った高虎は新たな主君を探すことなく、高野山へ登って出家します。
15年にわたって仕えた秀長への恩義と、その後継者の早すぎる死を経験した高虎の胸中には、俗世から離れたいという思いがあったのかもしれません。
しかし秀吉は高虎の才を惜しみ、使者を派遣して山を下りるよう説得しました。
高虎は固辞しましたが、最終的には秀吉の命に従い、伊予板島七万石の大名として復帰することになります。
家康の懐刀へ

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
秀吉の死後、高虎は徳川家康に接近します。
関ヶ原の戦い(慶長5年)では東軍に属し、西軍の脇坂安治らを調略して寝返らせるなど、戦場での武功だけでなく情報戦でも力を発揮しました。
かつての同僚たちの心を動かし、天下分け目の戦いを勝利へ導く。秀長時代に培った人脈と交渉術がここでも活かされたのです。
大谷吉継の陣を正面から攻めた藤堂隊の奮戦もさることながら、この水面下における働きは、東軍勝利の大きな要因となりました。
戦後、高虎は今治十二万石を加増され、さらに慶長13年(1608年)には伊勢・伊賀に転封となり、津藩三十二万石余の大名となりました。
外様でありながら譜代に準ずる待遇を受け、江戸城や丹波亀山城など幕府の要となる城郭の築城を任されています。
元和2年(1616年)、家康が臨終を迎えた際、枕元に招かれた外様大名は高虎ただ一人だったと伝わります。
家康は高虎に対して「もし天下に一大事あらば、先陣は藤堂和泉守に任せよ」と遺言したといいます。
秀長が遺したもの

画像:藤堂高虎像 草の実堂編集部撮影
寛永7年(1630年)、高虎は75歳で没しました。
主君を何度も替えた男は、一介の足軽から三十万石を超える大名となり、結果的に泰平の世を支える立場に至ったのです。
「七度主君を替えた」と揶揄されることもある高虎ですが、その生涯を貫いていたのは秀長のもとで培った実務の才覚でした。
戦場での武勇だけでなく、築城・調略・領国経営など、秀長が高虎に教えた「整える力」は、主君が替わっても失われることはなかったのです。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀吉の傍らで天下を支えた秀長の姿が描かれています。
その秀長に15年仕え、地味ながら日本史に影響を与えた男がいたことも、あわせて記憶しておきたいところです。
参考文献:
藤田達生(2006)『江戸時代の設計者 − 異能の武将・藤堂高虎』講談社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部























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