血の匂いと浪漫を感じる集団の中で、一際『謎』の多い人物・・・
新撰組三番隊組長「斎藤一(さいとうはじめ)」である。
幕末の京都、鳥羽・伏見、そして戊辰戦争と戦う。やがて明治を迎えた彼は、何を思い新しい時代に生きたのだろうか?
前回は「新撰組の強さについて調べてみた」というテーマで組織に焦点を絞ったが、今回は斎藤という「個」に注目してみた。
フィクションとしての斎藤
私が斎藤の名を知ったのは和月伸宏原作の漫画「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」であった。狼を思わせる風貌をした主人公のライバルである。明治初期においても孤独な戦いを続け、己の正義を貫くダークヒーロー。
この作品で彼の名を知った人も多いのではないだろうか?
次に彼がクローズアップされたのは、浅田次郎原作の映画「壬生義士伝(2001)」での登場だった。こちらはより現実味はあるが、やはり凄腕の剣客を佐藤浩市が見事に演じた。その後も、実写版「るろうに剣心」、大河ドラマ「新撰組!」などで様々な斎藤一を見ることになる。
明治の御世まで生きた新撰組の主要人物ながら、現存するエピソードは少ない。だからこそ我々は想像を飛躍させ、その生き様を思い描くのだ。
新撰組への道
天保15年1月1日(1844年2月18日)山口家の三子として生まれる。
父・山口祐助は播磨国・明石藩(兵庫県明石市近辺)の足軽であったが、江戸へ出て旗本・鈴木家に仕えた。これにより、斎藤は江戸に移り住むこととなる(斎藤は生涯で数回改名しているが、混乱を避けるためここでは斎藤で統一する)。
しかし、出身についても江戸・播磨・会津など諸説あり、父が明石出身であったことから、斎藤も明石出身説が有力である。
19歳のとき、斎藤と同じ道場に通う同輩に真剣勝負を申し込まれた。斎藤の相手は家督を継いだばかりの若い旗本で、勝負は立会いを入れた正式なものだった。別の説では、江戸の小石川関口(東京都文京区)で旗本と口論になったことにより、真剣勝負になったという。
いずれにせよ、相手は格上の身分。斬れば大事になるのは明白だが、斬らねば斬られるのも明らかである。
結果、斎藤は殺すまでの覚悟はないものの、誤って斬り殺してしまった。これが、斎藤が初めて人を殺めたときの話である。その日のうちに斎藤の身を案じた家族に旅支度をさせられ、京都の聖徳太子流剣術道場主・吉田某のもとに身を潜めることとなった。
そして文久3年(1863年)3月10日、新撰組の前身である壬生浪士組に入隊する。斎藤の運命の歯車が回り始めた瞬間であった。
新撰組隊士として
新撰組が本格的に始動する頃、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。副長助勤は新撰組における位で、局長、副長に次ぐ三番目となる。同時に一隊の組長をも意味していた。当時、最若年の組長であり、近藤、土方からの信頼が厚かった証だ。
なお、斎藤が苗字を「山口」から変えたのは、新撰組に参加する以前と言われている。京に逃亡してきた際に変えた説が有力である。
後の再編により三番隊組長となり、我々の知る斎藤の姿が徐々に見えてきた。
その後は新撰組隊士として、小隊を率いる組長として、存分にその腕を振うことになる。
あるとき、四条堀川西へ入るところにある米屋に鉄砲を持った三人組が押し込み強盗に入った。通報を受けた新撰組は、永倉新八、斎藤ら5名が出動。店内に突入してくる新撰組に対し強盗は銃を発砲するが、ひるむことなく戦闘の末に強盗3名を斬殺した。
※池田屋跡
池田屋事件の際には、斎藤は土方歳三隊に属し、援軍として駆けつけるとこれを鎮圧することに成功。この功績により、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた(単純には換算できないが、1両は現在の価値で約13万円がひとつの目安)。
また、新撰組内部での粛清役を多く務めたとされ、隊内での暗殺も行ったと言われる。剣豪が揃う新撰組において、隊士を暗殺できたほどの腕前だった。
斎藤の剣術
沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれ、新選組の撃剣師範を務めた。実戦においては天才・沖田総司より強かったとされる。永倉に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と言わしめたほどだ。
その流派もいくつかの説があったが、某官庁の資料によると無外流が正しいと言われる。
さて、先述の「るろうに剣心」では左片手一本突きの奥義「牙突(がとつ)」を得意技としている。もちろん、牙突はフィクションだが「左片手一本突き」を得意としていたのは史実だ。
一方で、当時は仮に左利きであっても、左利きで相手をするのは非常識で無礼なことであった。そのため、斎藤が左手を使ったのは後の世の創作だという意見もあるが、入り乱れた状況の中では利き腕を使うと考えたほうが自然である。
事実、後年になり「真剣勝負では考えながら出来るものではなく、夢中になって斬りあうのです」という旨を語っている。
日本刀の基本的な動作は「斬る・突く・払う」によって構成されるが、相手を切る場合に、踏み込みが浅ければ衣服の上から相手に深手を負わせるのは難しい。剣先に力を集中させる突きであれば、一撃で仕留められる可能性が高かった。もっとも、外れれば隙が大きいので素早く構えを直す俊敏さが求められる。その点で斎藤の動きは優れていたのだ。
明治の末、ある人物が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていた。そこにひとりの老人が通りかかり、その竹刀を借りると老人は一瞬で突き、缶は揺れることなく貫通していた。老人は「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」などと教えたが、その老人こそ斎藤であったという逸話がある。
斎藤が突きを得意としていたのが良く分かる。
新時代
時代が大きく揺れ動く中、斎藤は戊辰戦争で近藤や土方らと別れ、さらに会津での戦いの末に新政府軍に投降した。
時は流れ、明治という新時代において「藤田五郎」と改名した斎藤は、明治7年(1874年)7月、東京に移住。警視庁に採用される。明治10年の西南戦争にも参戦し、その奮戦は新聞にも取り上げられたほどだった。
大きな内乱もなくなると巡査部長、警部補、警部と昇進し、明治25年(1892年)12月に退職する。大正4年9月28日、胃潰瘍により死去。享年72歳であった。
※西南戦争
幕府のために京で戦い、旧幕府軍のために転戦したほどの斎藤が、なぜ明治になり新政府の役人として剣を握ったのだろうか?
新政府は彼から新撰組という居場所を奪った、いわば仇である。だが、ここまで調べてその理由がわかった。
それは身分や立場こそ違え、同じ幕末の動乱を最前線で見てきた者にしか実感できない共通の思い。
「日本国の未来」である。
坂本竜馬、勝海舟、西郷隆盛たちと同様、彼も戦いの中で「幕府」や「政府」などの枠に捕われず「日本というひとつの国」の未来を案じた。だからこそ、新時代においても剣を振るえる場所を求め続けたのである。
最後に
土方歳三や沖田総司などの影に隠れ、あまり日の目を見ることのなかった斎藤一。現在ではその認知度こそ高まったが、それでもなお彼の生涯には不明な点が多い。明治の世まで生き抜いたにも関わらずである。
しかし、それもまた斎藤らしいではないか。
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