幕臣から新政府へ出仕
榎本武揚(えのもとたけあき)は徳川の家臣として戊辰戦争を戦い、幕府海軍の副総裁として、また「蝦夷共和国」の総裁として最後まで新政府への抵抗を続けた人物でした。
この幻とも言うべき「独立国」も新政府軍の攻勢によって瓦解、共にあった土方歳三は戦死しました。
しかし榎本は捕縛されて獄にあった後、その才を惜しんだ新政府の黒田清隆によって、かつては敵であった新政府に出仕、以後政治家として要職を歴任しました。
福沢諭吉からはその「変節」振りを激しく批判された榎本ですが、彼の軌跡をすこし辿ってみました。
榎本武揚 の生い立ち
榎本は天保7年(1836年)に江戸下谷(現在の御徒町)に、江戸城西の丸の御徒士目付を務めた父・武規の次男として生まれました。
15歳で幕府の昌平坂学問所に学び、修了後に箱館奉行・堀利熙に従って蝦夷の箱館に赴いたことが、生涯に渡り深く接することになるその地との関わりの始めとなりました。
後に榎本は、幕府の長崎海軍伝習所へ二期生として入学、ここで一期生だった勝海舟と出会いました。
機関学や化学など修めた榎本は、安政5年(1858)には江戸の築地軍艦操練所で教授を務めました。
オランダへの渡航
文久2年(1862)6月、榎本ら9名の留学生は幕府が軍艦を発注したことに伴い、その依頼先であるオランダへの留学に出発しました。
ここで榎本は、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などの当時の最新の学問を学びました。
そして榎本がオランダに渡ってから3年4か月後の慶応2年(1866)7月、発注されていた軍艦「開陽丸」が完成し、同年に榎本はこれに乗って日本へ戻る航海の途につきました。
慶応3年(1867)3月、榎本は無事に日本・横浜へ戻りました。この5年に及んだオランダ留学の経験・知識が、以後の人生に大きな影響を与えることになりました。
榎本がオランダに留学している間に、徳川幕府を巡る情勢は先鋭化しており、帰国から約半年した慶応3年(1867年)10月には将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行うに至りました。
徳川幕府の終焉
慶応4年(1868)1月2日、鳥羽・伏見の戦いが始まると榎本も開陽を旗艦とする幕府艦隊を率いて、大阪で薩長の軍艦と戦ったとされています。
しかし続く1月6日の夜、大坂城にあった将軍慶喜は少数の側近とともにその開陽に乗船し、そのまま江戸へと逃走しました。
翌1月7日に大坂城に入った榎本は、城に残された武器・備品や18万を軍艦・富士山丸に積んで江戸へと向かったとされています。巷説ではこの時の18万両が後の「蝦夷共和国」の資金となったとも言われています。
江戸に帰還した榎本は、幕府海軍の副総裁に就任し、新政府軍との徹底抗戦を主張していましたが、将軍慶喜は恭順を選択し水戸に謹慎したました。
その後、慶応4年/明治元年4月11日に江戸城は新政府軍へと無血開城されましたが、これに異を唱えた榎本は、開陽など軍艦4隻を主力とした艦隊を編成し北へと逃れました。
一旦仙台に寄港した榎本らは、更にそこから蝦夷地を目指し同年の10月20日に蝦夷地へと到着しました。
蝦夷共和国
蝦夷地に上陸した榎本たちは、慶応4年/明治元年12月15日に選挙を実施し、トップの初代総裁に榎本が選出されました。
このとき同時に土方歳三も陸軍奉行並に選出されています。ここに「蝦夷共和国」が樹立されたのでした。
この樹立に際し、榎本がオランダで学んだ国際法の知識が生かされました。明治新政府とは別の政権としてイギリス、フランス、アメリカなどの諸国へその政権の国際法上の承認を求めました。
しかし、イギリスやフランスは「不干渉」を表明しました。アメリカは明治新政府を正当な政府と認め、幕府がアメリカに発注していた軍艦も明治新政府へと引き渡しました。
これで海軍力を強めた明治新政府は攻勢を強め、ついに明治2年(1869年)4月に蝦夷地へと攻め込んでいきました。
この新政府軍の侵攻で函館の五稜郭に追い詰められた榎本らは、同年5月16日に政府軍の黒田清隆と会見、降伏に至りました。捕えられた榎本は東京へ護送され、2年半に及んで獄へ収監されることになりました。
その後、明治5年(1872年)1月に特赦で出獄、続く3月に無罪放免を得ました。
明治政府への出仕
晴れて自由の身となった榎本に対し、黒田清隆が北海道の開拓事業を共に行うことを要請しました。
榎本の持つ、オランダ留学で培われた学識・見識を高く評価していたことからの招請でした。
この要請を受けた榎本は、明治5年(1872)3月に開拓使四等出仕(県令待遇)となりました。
これを皮切りに、榎本は駐露特命全権公使、海軍中将、駐清特命全権公使、逓信大臣、農商務大臣などの要職を歴任しました。
このことが冒頭の福沢諭吉の批判を生んだ「変節」と捕えられたのですが、そうしてみると「学問ノススメ」を著した福沢が、存外「忠臣ニ君にまみえず」という江戸期の武士の精神性を持っていたようも感じられます。
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