「そうせい候」
毛利敬親(もうりたかちか)は、長州藩の第13代の藩主を務め、激動の幕末期において次の明治へと繋がる人材を世に送り出す役割を担った人物です。
大名・藩主としての敬親は、同時代に幕末の四賢候と称された島津斉彬、山内容堂、伊達宗城。松平春嶽などの諸侯と比較すると、凡庸な主君として語られることも多いようです。
「そうせい候」とも呼ばれた敬親は、進言される家臣からの意見を取り入れて了承の意を示すのみなことが多く、自らの意見を前面に押し出すことは少なかったと言われています。
しかしこうした泰然自若なあり方は、高杉晋作、吉田松陰、大村益次郎などの秀でた人物を世に出す懐の大きさを有していたとみる向きもあります。
財政赤字の解消
敬親(たかちか)は、文政2年(1819年)に毛利家の一門にあたる福原房昌の長男として生まれました。
父・房昌が長州藩11代藩主となり、その養子であった斉広が12代藩主となりましたが、その斉広が就任からわずか20日という短さで死亡したため、急所17歳の敬親が13代目の藩主へと就任することになりました。
敬親は、天保9年(1838年)に萩に入ると藩政の改革に着手しました。
天保10年(1839年)に村田清風を登用して藩の財政再建に取り組み、藩士の借金利息の軽減、特産品の自由取引への移行、関門海峡での金融・倉庫業の実施などを行わせています。
これらの施策のによって藩の赤字を解消させ、その後も坪井九右衛門や周布政之助らに引き継がれていきました。
人材育成
敬親は、天保12年(1841年)に江戸における教育機関として有備館(仙台藩のものとは別)を設けました。続く嘉永2年(1849)、藩校である明倫館を萩の中心部へと移転させて規模の拡張張を行いました。
この前年、天保11年(1840年)にはわずか11歳で明倫館の教授見習を務めていた吉田松陰を城に招聘して、山鹿流兵学の講義をさせています。
敬親はこの講義に感銘を受け、松陰も世に出るきっかけを得たとされています。
因みに松陰はこの後、安政4年(1857年)に松下村塾開き、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などの人材を輩出していくことになります。
攘夷の実行と失敗
長州藩は、嘉永6年(1853年)にアメリカのペリー提督が浦賀に来航すると相模国周辺の警備を担いました。
この当時の長州藩は「攘夷」を藩論として掲げていました。
しかし敬親は、文久元年(1861年)になると「公武合体」策を提唱する長井雅楽(ながいうた)を登用して、朝廷と幕府との協調を図りました。
しかし長州の藩論は周布政之助や桂小五郎らの強固な「攘夷」派が主導権を握り、敬親もこれを認めたことから、長井の政策は実現しませんでした。
長州藩は、文久3年(1863年)5月に久坂らによる馬関海峡(現・関門海峡)でのアメリカ商船とフランス・オランダ軍艦に対する砲撃によって攘夷行動を実施しましたが、反撃を受けて下関砲台を壊滅させられる損害を出しました。
同年8月には、薩摩藩・会津藩を中心とした「公武合体」派が朝廷における尊皇攘夷派を一掃するという、八月十八日の政変が起こり、これにより長州藩は堺町御門の警備からも外され、京を追放されることになりました。
朝廷・幕府への恭順
元治元年(1864年)6月に京の池田屋で多くの長州藩士を含む志士らが新選組に討たれた事件が起ると、これに憤った長州「攘夷」派は京へと兵を進めて武力衝突・禁門の変を起こします。
この長州藩に対し、朝廷は幕府に対して長州の征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪しました。
こうして第一次長州征伐が開始され、敬親は国司親相・益田親施・福原元僴ら3家老を切腹させることで幕府・朝廷に恭順の意を示し、10月には萩にて謹慎しました。
ここに長州の「攘夷」派は藩政から追われ、保守派が主導権を握ることになりました。
討幕・版籍奉還の決断
しかし翌慶応元年(1865年)に高杉晋作らが馬関で挙兵し、保守派を駆逐することに成功します。
こうして倒幕派は主導権を奪い返すと、高杉らの奇兵隊を始めとする長州藩の諸隊の近代化に着手し、大村益次郎を登用して西洋式の軍へと改革を行いました。
翌慶応2年(1866年)に仇敵・薩摩藩と薩長同盟を締結すると、同年8月の行われた第二次長州征伐では幕府勢を退けて討幕への流れを加速させました。
同年10月に討幕の密勅を朝廷から受けると、翌11月には薩摩藩らと官軍(新政府軍)を組織して上洛、朝廷から王政復古の大号令を発布させるに至りました。
この後、敬親は翌明治2年(1869年)1月には薩摩藩・土佐藩・肥前藩と並んで進んで版籍奉還を実施し、明治新政府の中央集権化を推進しました。
敬親は隠居後の明治4年(1871年)3月、山口にて享年53にて死去しました。
毛利敬親は「攘夷」と「公武合体」、最終的には討幕と、時として方針に振れ幅はあったものの、家臣の言を聞き入れて幕末の舵取りを担った、頭の柔らかい名君だったのではないでしょうか。
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