日露戦争の概要
日露戦争は1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日の約1年7ケ月の間に行われた大日本帝国とロシア帝国との戦争です。
日清戦争後の三国干渉でも焦点となった朝鮮半島及び満州の支配を巡る両国の衝突が原因となって起こったもので、陸上では満州南部と遼東半島が、海上では日本海が主戦場となりました。
この戦争はアメリカの仲介で行われた、ポーツマス条約の調印によって講和が成立することで終了しました。
日本は、この講和条約において朝鮮半島での権益を得て、ロシア領であった樺太の南半分の割譲もを受けて領土獲得に成功しました。
加えてロシアが清から受けていた大連と旅順の租借権を譲り受け、東清鉄道の旅順から長春間の支線の租借権も同様に手に入れました。※租借権(そしゃくけん)とは一定期間、他国から土地などを貸し与えられる権利のこと
しかし賠償金については獲得が出来ず、このことは世論の反発を招きました。
ロシアの南下政策
ロシア皇帝ニコライ2世は国内に抱える諸問題の鎮静化のために、アジアの満州・朝鮮の権益の拡大を図ること企図していました。この一環としてシベリア鉄道の建設など勢力圏の拡張を推進していました。
一方日本は、日清戦争で一時的に遼東半島を得たものの、その後の三国干渉を受けてこれを返還することになったため、大国ロシアに対抗するには協力な後ろ盾の必要性を痛感していました。
このことから日本はイギリスとの日英同盟を締結したことで、その後ろ盾を得る事に成功し、ロシアとの開戦を決断しました。
日露戦争とは帝国主義同士の両国が、領土拡張政策の衝突から起こした領土・植民地の獲得戦争というべき意味の戦争でした。
列強各国の思惑
日本は日英同盟の締結によってイギリスの後ろ盾は得たものの、莫大な戦費の調達が課題となりました。
当時の金額で凡そ17億円と試算された戦費の半分以上を、ロンドンとニューヨークにおける外債の募集で調達しました。
このようにイギリスとアメリカは、資金面からも日本を支援しましたが、これにはアジアにおけるロシアの権益拡大を牽制しようとする目的があり、この点において日本と共通の利害関係を持ったことから実現したものと言えました。
一方ロシアは、三国干渉を共に行ったフランス・ドイツの資本援助を受けており、フランスとドイツはロシアのアジア進出を後押しすることで、ヨーロッパにおける自国への脅威を低減させる狙いを持っていました。
日露両国の限界
1904年(明治37年)2月い開始された日露戦争は、陸上では日本軍が凡そ1年の歳月を費やす激戦の末、ロシア軍の旅順要塞を陥落させました。この戦いの途上において旅順港を砲撃するために203高地の攻防戦も行われました。
更に翌1905年3月の奉天会戦にも勝利を収め、陸上における戦いを制した日本は、海上においても同年5月の日本海海戦でバルチック艦隊との決戦を制して戦争の趨勢を決定付けました。
ロシアは日本との戦争以外にも、国内においてロシア第一革命が勃発しており、帝政自体に揺るぎが生じたことで継戦能力を失いつつありました。
また日本もこれ以上の戦争の長期化は避けたい状況であったことから、同年9月にアメリカ大統領セオドア=ルーズヴェルトの仲介で、講和となるポーツマス条約を締結することになりました。
日本にとっての日露戦争は、国力の限界という問題に直面しながらも、個々の戦闘における戦術的な勝利たけでなく、大陸の権益を確保するという大きな戦略目標を達成した面からも勝利と言えるものでした。
日露戦争 後の世界
日露戦争の敗戦によって東アジア方面への進出に躓いたロシアは、それでも南下政策を継続してバルカン方面への侵出を実行していきました。この行動はパン=ゲルマン主義を掲げるドイツ・オーストリアとの必然的な対立を生むことになりました。
方やドイツのヴィルヘルム2世の政策について、フランス・イギリスは警戒を強め、列強各国は多方面に及ぶ利害関係の調整を図りつつ、各々が軍事同盟を締結して平和への均衡を保とうとするようになりました。
こうして日露戦争の前後には、露仏同盟・英仏協商・日仏協約・日露協約・英露協商など複数の同盟関係が結ばれその内容には植民地の分割協定が含まれており、列強各国の打算と妥協の産物といえるものでした。
日本にとっては、日露戦争では仲介まで引き受けたアメリカが、自国の中国大陸への進出の遅れから門戸開放・機会均などの要求を強めたことで、太平洋戦争に続く日米の対立の原点となるという皮肉な状況を生むことになりました。
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