本当の愛称はジョン・マン
ジョン万次郎(ジョンまんじろう)として知られている人物は本名を中浜万次郎と言い、幕末の時代ににあって日本とアメリカとを繋ぐ貴重な役割を演じた人物でした。
ジョン万次郎という呼び名は、後年作家の井伏鱒二が創作したもので漂流した万次郎を助けたアメリカ人からは、ジョン・マンの愛称で呼ばれていました。
漂流後自らの意志でアメリカへと渡った万次郎は、寸暇を惜しんで学問を治め、英語のみならず数学や航海術など西洋の最新の知識を学んで帰国後はその教育にあたりました。
土佐沖から伊豆諸島へ漂着
万次郎は文政10年(1827年)、現在の高知県土佐清水市中浜の貧しい漁師の次男として生まれました。
万次郎がわずか9歳のときに父は死去し、母と兄は病気がちだったことから、その頃から万次郎が働いて一家を支えました。
そのため、寺子屋に通うことも叶わず、満足に読み書きもできない幼少期を送ったとされています。
天保12年(1841年)、14歳の万次郎は4人の仲間と漁船に乗り組んで漁に出ました。このとき土佐の足摺岬から約15kmの沖合で突風に見舞われて太平洋を東に数日間漂流し、伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着して何とか約5ケ月間暮らしました。
アメリカ本土での進学
この鳥島を偶然通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された万次郎達5名は、アメリカへ戻るこの船に同乗させてもらい、寄港先のハワイへ1842年(天保13年)に到着しました。
万次郎以外の4名はここで下船しましたが、万次郎は捕鯨船員としてそのままアメリカへ渡ることになりました。
これは船長のホイットフィールドが万次郎の聡明さを認めたことと、万次郎自身が希望したことでもありました。
こうして万次郎はアメリカ本土へと渡り、船長の養子に迎えられると学校・私塾で学びました。
学校ではその聡明さを発揮して言葉の壁がありつつもトップの成績を収める程でした。
島津斉彬との邂逅
万次郎は学校を卒業すると再び捕鯨船に乗り込み、1846年(弘化3年)から1850年(嘉永3年)5月まで船員生活を続けました。
帰国を決しした万次郎は先ずハワイに渡って、漂流当時の土佐の仲間との再会を果たしました。その後、嘉永4年(1851年)2月に当時薩摩藩の支配下にあった琉球に上陸し、薩摩本土へと移送されて取調べを受けました。
薩摩藩は万次郎達を歓待し、藩主の島津斉彬自らが海外事情や文化等についての聴き取りに当たったとされています。
その後、斉彬の要請で洋式の造船技術や航海術の知識を教授しました。斉彬は万次郎の英語力と造船知識を評価して、後に藩の洋学校の英語の講師に招聘しました。
幕府の直臣への登用
万次郎らは、薩摩藩から幕府の長崎奉行所へ身柄を移され取り調べを受けた後、ようやく土佐藩に引き渡されて高知城下へと移されました。ここでも藩の取り調べを経て、実際の故郷へと戻れたのは漂流から11年が経過した嘉永5年(1852年)のことでした。
万次郎は土佐で藩士に取り立てられると、藩校での教授に就きました。更に続く嘉永6年(1853年)にはペリー来航に対する対策を迫られていた幕府の召聘を受けて江戸へ赴き、直参の旗本に取り立てられました。この時に故郷の地名から中浜の苗字を称することになりました。
万次郎は幕府の軍艦教授所教授に任命され、英語や造船・航海術などの指導に当たりました。
ジョン万次郎 の英語力
その後万次郎は、明治維新後の明治2年(1869年)には政府からの招聘を受けて開成学校(現・東京大学)の英語教授に就任しました。知人らからは政治の世界への転身を進められたこともありましたが万次郎はの教育者してその生涯を送りました。
元々貧しい漁民の出自であり、幼少時に基礎的な学識を身に付けままアメリカで学んだことから、英語も口語の通訳は達者でしたが、文章の英語を翻訳することは苦手だったとも伝えられています。
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