異例の薩摩藩士
五代友厚(ごだいともあつ)は、幕末から明治時代を生きた薩摩藩士であり、明治新政府への出仕を辞した後には実業家として、殊に大阪経済界の発展に寄与した人物です。
少し前の朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカが演じていたことでご存知の方もあるかも知れません。
薩摩藩士でありながら、明治維新後の新政府をわずかな期間で去ることになり、33歳の時に自ら民間へと下野したという異例の経歴の持ち主でもあります。この五代について調べてみました。
元から開国派
五代は天保5年(1835年)に薩摩藩士で記録奉行兼町奉行を務めた五代直左衛門秀尭の次男として生まれました。
同じく薩摩藩士で明治維新を牽引した西郷隆盛や大久保利通らが下級武士の出仕だったことと比較すると、五代家は薩摩藩内でも有数の碌を食む上位の家柄でした。
また五代はこの当時の主流だった薩摩藩士達と異なり、当初から攘夷の考えはなく西洋の進んだ文物を吸収することに抵抗がなかったと伝えられています。
そうした生い立ちの下、安政4年(1855年)に幕府が勝海舟による「長崎海軍伝習所」を開設すると五代もその伝習所に学びました。ここでの経験によって五代はますます開国の必要性を痛感するようになりました。
生麦事件
しかし幕末の薩摩藩の主流の考えは攘夷でした。殊に薩摩は長州に並んでその気風が強く、文久3年(1863年)に有名な生麦事件を起こし、イギリス艦隊が報復のため薩摩へ向かう事態となりました。
五代はこここで薩摩に勝ち目のない事を確信していたため、自らがイギリス艦隊と直談判して賠償金を支払い、腹を切って自決することで解決しようと考えたと伝えられています。
薩摩藩がイギリスとの交戦にに挑む構えの中、五代は海外への渡航経験のある松木弘安と通詞の堀孝之を引き連れてイギリス艦隊への交渉に臨みました。
ここでイギリスの捕虜となって薩摩への攻撃を思いとどまらせる働きをした五代でしたが、当時の幕府・薩摩藩の主流派からは冷遇され、身の危険があったためにその後は逃亡生活を送ることになりました。
維新後すぐに辞職
五代は文久4年(1864年)に帰参を許され、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩の使節団の一員としてイギリスへと渡航しました。
その後帰国した五代は語学力を買われて藩の外国との交易を担うことになり、イギリスの商人グラバーからの銃火器の購入など、薩摩藩の装備の近代化に貢献しました。
五代は明治元年(1868年)に維新が成ると新政府では参与職外国事務掛に任じられ、攘夷の名残として全国で頻発していた外国人に対する暴行事件などの対処にあたりました。
しかし翌明治2年(1869年)5月に会計官権判事の職に就いたものの、旧薩摩藩の武力討幕を推進した面々との反りが合わず2ケ月程でその職を辞しました。
大坂経済への貢献と鉱業開発
明治政府を去った五代は大阪に移り、明治時代となってそれまでの銀や藩との取引が無くなり凋落傾向にあった大阪経済の復興に尽力しました。
明治11年(1878年)に現在の大阪証券取引所の前身を設立し、更に大阪商工会議所を設け自らが初代の会頭を務めました。
また五代は幕末の時期から鉱山の開発にも手を広げ、それまで放置されていた鉱山から新たに銀・銅を採取する技法を西洋から取り入れました。その主な鉱山には奈良県の天和鉱山や、福島県の半田銀山などがあります。
晩年は政府の黒田清隆と蝦夷地・北海道の開発に手を広げようとしましたが、政府と癒着した不正取引と非難されることもありました。
五代は明治18年(1885年)に病によって享年50歳で死去しました。
様々な事業を手掛け大阪経済界に大きな足跡を残しながらも、死去した際に財産はなく多額の借金があるのみだったと伝えられています。
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