西郷兄弟は父方の従兄弟
大山巌(おおやまいわお)は薩摩藩の出身の軍人で、日露戦争では満州軍の総司令官として日本の勝利に貢献、ロシアのバルチック艦隊を破った海軍の東郷平八郎と並んで、陸軍の殊勲者に上げられた人物です。
同じく薩摩藩出身の西郷隆盛・従道兄弟とは父方の従兄弟にあたり、大山自身は西南戦争では政府軍に属し、西郷隆盛を敵としたものの、終生尊敬の念を持っていたと伝えられています。
大山は通称を弥助と言い、後に大山自身が設計に携わった火砲は陸軍で弥助砲とも呼ばれました。
当初は攘夷派
大山は天保13年(1842年)、薩摩藩士・大山綱昌の次男として生を受けました。
父・綱昌は大山家に養子に入っていたため大山姓を名乗っていましたが、西郷兄弟の父・吉兵衛の実弟でした。大山と西郷隆盛とは一回り以上の年齢差があり、大山15歳下にあたりました。
しかし薩摩藩独自の郷中と呼ばれた藩士育成の仕組みの中で、大山は西郷兄弟の直接の指導を受けて過ごしました。若かりし頃の大山は薩摩藩の中でも先鋭的な尊王攘夷派の藩士となり、それが元で藩の主流派から謹慎に処されています。
大山の謹慎は生麦事件後の薩英戦争時に赦され、大山らはその時にイギリスの軍艦の乗っ取りを企図して乗り込んだことで強大で且つ進んだ列強の力を実感し、自らも西洋の砲術を習得しようと決心したとされています。
西洋砲術の専門家
大山は、文久3年(1863年)に佐久間象山らを輩出した幕臣の江川英龍の塾の門弟となり、西洋の砲術を習得しました。
こうして砲術の心得を得た大山は薩摩藩兵への砲術の指導者の一人となり、明治元年(1868年)に戊辰戦争が開始されると薩摩藩の洋式銃隊を指揮して従軍しました。
戊辰戦争に従軍した大山は各地を転戦する中で、使用された野砲の改良を行ったことから大山の手掛けたそれらの野砲は「弥助砲」とも呼ばれました。
戊辰戦争後の明治2年(1869年)に大山はヨーロッパを訪問して軍艦・火砲の造船施設を視察しています。更に翌明治3年(1870年)から6年間をスイスのジュネーヴへ留学、語学を始めとして軍事・兵器の研究にあたりました。
西郷隆盛の説得のため帰国
このスイス留学の最中に大山は、岩倉具視の要請を受けて帰国の途につきました。
当初はこの要請を拒んでいた大山でしたが政府を下野した西郷隆盛の説得という一大事に、結局引き受けざるを得なくなったものでした。
明治7年(1874年)10月に帰国した大山は鹿児島に戻っていた西郷を訪ねて凡そ1ケ月にも渡る交渉を行いましたが、西郷の決意は固く説得は不首尾に終わりました。
この3年後の1877年(明治10年)に西郷が兵を挙げたことで西南戦争が勃発し、大山は鎮圧する側の政府軍の司令官・陸軍少将として従軍し、敬愛する西郷と干戈を交えるという立場に置かれました。
西郷軍は西洋式の銃火器を装備した政府軍に敗れ西郷自身も自刃して果てましたが、大山は西郷を憚って以後再び鹿児島に戻ることは無かったと伝えられています。
首相だけは固辞した大山
以後も陸軍に重きをなした大山は、1894年(明治27年)の近代日本初となった対外戦争・日清戦争に陸軍大将・第2軍の司令官として従軍し日本の勝利に貢献ました。
こうした功績から1898年(明治31年)には元帥の称号を授けられ、1904年(明治37年)の日露戦争にも同役職の満州軍総司令官としてロシアを破る壮挙を成し遂げました。
この時代、功を挙げた軍人が日本の首相に就任することは普通でしたが、海軍にあった西郷従道と同じく首相に推されても固辞しました。
大山は、大正5年(1916年)に内大臣在任中に病に倒れ享年75歳の生涯を終えました。
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