河上彦斎とは
河上彦斎(かわかみげんさい)とは、人気漫画「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心のモデルとなった人物である。
田中新兵衛(たなかしんべえ)、岡田以蔵(おかだいぞう)、中村半次郎(なかむらはんじろう)と共に「幕末の四大人斬り」と異名を取った尊王攘夷派の志士で、幕末期の京都において「天誅」と称して起こした暗殺事件は都の人々を震撼させた。
身長150cmと小柄な体格で、一見女性にも見える容姿だった河上彦斎は、兵学者・佐久間象山(さくましょうざん)らを暗殺し「人斬り彦斎」と呼ばれた。
明治維新後は高田源兵衛(こうだげんべい)と名を改め、二卿事件への関与や広沢真臣暗殺の嫌疑を理由に捕縛され、斬首されてしまう。
今回は河上彦斎の生涯について、前編と後編にわたって解説する。
出自
河上彦斎は、天保5年(1834年)肥後国熊本藩(現在の熊本県熊本市)の下級武士・小森貞助の次男・彦次郎として熊本城下の新馬借町にて生まれる。
11歳で同じ藩の下級武士・河上源兵衛の養子となり、名を「河上彦斎」と改めた。ここでは「彦斎」と記させていただく。
彦斎は16歳で茶坊主として藩主邸の花畑屋敷で召し抱えられて藩主の近習となり、茶坊主から掃除坊主、そして国老坊主へと順調に出世をしていく。
彦斎の容姿は、身長が150cmほどで色白だったために、一見すると女性の様であったという。
剣は我流で、片手抜刀の達人であり、片膝が地面に着くほど低い姿勢から逆袈裟斬りをしたと伝えられている。
当時、熊本藩で最も盛んだった居合術が、片山久安が流祖である「伯耆流居合」であり、彦斎はその居合術を修行したという説もある。
※「伯耆流居合」には彦斎が得意にしていた逆袈裟斬りの技が多かった点がその根拠だとされている。
宮部鼎蔵との出会い
彦斎は、儒学者・轟武兵衛や国学者・林桜園に師事し、神風連の太田黒伴雄や加屋霽堅と共に兵法を学ぶ。
この頃、藩に召し抱えられていた山鹿流軍学の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会い、その影響を受けて尊王攘夷の思想を固めていった。
宮部鼎蔵とは、吉田松陰の東北旅行へも同行した尊王攘夷派の活動家で、彦斎は特に排外主義的な攘夷論者になっていったのである。
彦斎が20歳の時に黒船が来航し「安政の大獄」により尊皇攘夷の活動家たちが処刑、弾圧されたことで、彦斎はますます尊王攘夷の思想を強めていった。
熊本藩の志士たちの中には脱藩して上京した者も多くいたが、彦斎はお金がなく、宮部らと連携しながら藩命で上京できるように奔走する。
その後、その裏工作がうまくいき、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請がきたことで、彦斎も宮部らと共に上京することになったのである。
池田屋事件
京都に各地から攘夷志士らが集まる中、彦斎は朝廷の警護兵を真面目に務め、公家の三条実美からも厚い信頼を受けるまでになっていた。
しかし「八月十八日の政変」によって、急進的な尊攘派の長州藩と三条実美ら公卿たちは京から追放されてしまう。
熊本藩は全員に藩へ帰国するように命令を出したために、彦斎は帰国しなくてはいけない状況になった。
しかし、志士たちの中には脱藩し、長州藩と共に行動しようとする者も出始めた。
彦斎もその中の一人で、京を追放された三条実美の警護のために脱藩して長州に同行したのである。
厳戒態勢の京で宮部らは強硬手段に出ようと潜伏するが、池田屋にて会談中に新選組に襲撃されてしまい、宮部らは命を落としてしまった。
これが、「池田屋事件」である。
彦斎の同志や友人たちの多くが池田屋事件で命を落としてしまったのである。
彦斎はこの話を長州で聞いたために、宮部の仇を討つべくすぐに京へ向かった。
後編では彦斎による佐久間象山の暗殺と、彦斎の最後について解説する。
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