今と昔の歴史の教科書の違い
「1192年・いい国つくろう鎌倉幕府」。以前はこんな覚え方が主流であった。
今の中学校や高等学校の歴史の教科書では、「1185年・いい箱つくろう鎌倉幕府」という語呂で覚えるのが正しいのである。
さらに十七条の憲法を制定したのは「聖徳太子」ではなく、聖徳太子と同一人物である「厩戸皇子(うまやどのみこ・うまやどのおうじ)」と呼ぶことになっていて、補足として聖徳太子となっているのだ。
つまり歴史の教科書から「聖徳太子」という名も消えかかっているのである。
他にも今と昔では異なる表記や史実が増え、何と幕末の英雄・坂本龍馬(さかもとりょうま)も歴史の教科書から消えてしまう可能性もある。
今回は、今と昔でこんなに違う歴史教科書の変更点について、前編と後編にわたって解説する。
坂本龍馬が消える訳
2015年に高校や大学の教員らで設立された民間の研究会「高大連携歴史教育研究会」は、現在の教科書の基礎用語が「多すぎる」ことが問題だとして、用語の精選案を発表した。
その主な内容は「現在日本史、世界史において使われている基礎用語、各3,500語を約半分にすべき」というものだった。
そこで日本史分野の削減対象に挙げられたのが、坂本龍馬・大岡忠相(大岡越前)・武田信玄・上杉謙信・吉田松陰らである。
戦国最強と謳われた武田信玄と上杉謙信は、戦国三英傑の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のような大名に比べると、あくまでも地方の有力大名に過ぎず、日本の歴史や政治に大きな影響を与えていないと判断されたそうだ。
吉田松陰も日本の政治改革や法整備に直接貢献があるかと言えば特になく、彼の弟子たちが「明治維新」に貢献し、明治新政府の要職を歴任しているだけで本人に功績はないという判断なのだという。
坂本龍馬の偉業①「薩長同盟」
なぜ幕末の英雄として誰もが知る坂本龍馬が、その対象になったのだろうか?
坂本龍馬は土佐藩の身分の低い武士の家に生まれ、脱藩後浪士らと共に「亀山社中(後の海援隊)」という日本初の総合商社を運営した人物だ。
慶応2年(1866年)1月21日、敵対していた薩摩藩と長州藩が京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸で政治的・軍事的同盟を結んだ。
以前、薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強め、両藩は容易に相容れない立場にあった。
薩摩藩は八月十八日の政変で会津藩と協力し、長州藩を京都から追放した。
その翌年、禁門の変で長州藩兵と再び戦火を交え敗走させたことで、両藩の敵対関係は決定的となっていたのである。
そこで西国の雄藩である両藩を和睦させ、仲介役となったのが坂本龍馬とその盟友・中岡慎太郎であった。
慶応2年(1866年)1月21日、薩摩藩の代表者は家老の小松帯刀と西郷隆盛ら、対する長州藩の代表は桂小五郎(後の木戸孝允)らであった。
仲介人であり商人でもある坂本龍馬には「利」を使った切り札があった。
長州藩は鉄砲・弾薬・大砲などの武器が足らなかったが、幕府に朝敵とされ外国との貿易で武器を買うことを禁止されていたからである。
そのため、薩摩藩が懇意にしていたイギリスから武器を購入し、薩摩藩に足りない兵糧(米)と金を武器類と交換するという坂本龍馬の策で両藩は合意した。
「薩長同盟覚書」という密書の裏に、赤い字で坂本龍馬のサイン(裏書)がされ、見届け人(保証人)となった。
こうして「薩長同盟」を結んだ薩長軍は、鳥羽・伏見の戦いにおいて3倍の兵数の旧幕府軍を完膚なきまで叩き潰し大勝利を重ね、戊辰戦争を勝ち続け、明治新政府を樹立したのである。
明治維新の陰の功労者として、後世において坂本龍馬は知られる人物となったのである。
しかし近年の研究によって「薩長同盟」の偉業は坂本龍馬が行ったものではなく、この前年にある人物によって実現されたという事実が浮上した。
その人物は長州藩の桂小五郎である。彼が薩摩藩・家老の小松帯刀と協力し、薩摩藩主と長州藩主の正式な和睦と政治的・軍事的な同盟を結んだ文書が発見されたのだ。
つまり、近年の研究によって今まで信じられていた坂本龍馬が仲介役を務めて「薩長同盟」が結ばれた訳ではなく、その前年に両藩は正式に和睦し「薩長同盟」結んでいたことが考えられる。
坂本龍馬が両藩の間を行き来し、西郷・桂会談を実現させたことなどは事実なのだが、「薩長同盟」を結んだのは坂本龍馬だけの偉業ではなかったのである。
坂本龍馬の偉業②「大政奉還」
慶応3年(1867年)10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は260余年にも渡る政権を天皇に奏上する「大政奉還」を朝廷に提出し、翌15日に受理された。
将軍・慶喜が大政奉還を行ったきっかけとなったのは、これまで坂本龍馬がその草案となる「船中八策」を同年6月に土佐藩の重臣・後藤象二郎に対し口頭で提示したものを、海援隊の長岡謙吉が書き留めて成文化した事とされてきた。
この船中八策に書かれた内容は「幕府は政権を返上し、新たな政権下でも徳川家が最大の発言権を持ち、有力諸藩との合議の上で政権を運営すること」などであった。
つまり大政奉還の草案は坂本龍馬の船中八策であるとされてきたが、近年の研究によると坂本龍馬の新国家構想は「新政府綱領八策」と「五箇条の御誓文」等を混ぜて後世に作為されたフィクションだとされている。船中八策を長岡謙吉が書き留めたとされる長岡自筆の原本も残っていないのである。
坂本龍馬は大政奉還後の11月に、船中八策と内容が共通している「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数自筆しているが、この書面が船中八策とどのような関係にあるのかについても諸説がある。
中には坂本龍馬自筆の「新政府綱領八策」も、坂本龍馬の案とは考えにくいという説まである。
つまり大政奉還のきっかけとなった草案「船中八策」も、存在自体が疑わしいのである。
実は船中八策は、土佐藩をアピールしたい人たちが関わっている創作なのではないかと言われている。
明治時代、新聞記者で小説家でもあった土佐藩出身の坂崎紫瀾(さかざきしらん)が、船中八策を作ったのではないかという説もある。
坂崎紫瀾は「汗血千里駒」という坂本龍馬を主人公にした伝記小説を書き、明治時代に大ベストセラーになった。その中に坂本龍馬が後藤象二郎に船中八策を口頭で伝える場面があるのである。
当時、明治新政府の要職についたのは薩摩藩や長州藩出身者ばかりで、土佐藩出身者は政府から出て力が弱くなっていた。
そんな時、明治天皇の后である昭憲皇太后が、とある夢を見たことが新聞記事になった。それは坂本龍馬が枕元に立ち「日本海軍は必ず私が守ります」と言った夢だったという。
この年は日露戦争が開戦された年で、翌年日本海軍はロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。
こうして坂本龍馬は一躍有名になっていったのだ。
実はこの時、宮内大臣を務めていたのは土佐藩出身の田中光顕であった。
彼は坂本龍馬と仲が良く、暗殺された時に最初に駆けつけた仲間の1人で、龍馬が生きている頃を良く知る数少ない人物だった。
そして皇后宮太夫を努めていたのは元陸援隊士・香川敬三で、香川は皇后の部屋に密かに坂本龍馬の写真を置いていたという。
このようなエピソードもあり、薩長同盟や大政奉還に関する龍馬の偉業を疑問視する声も増え、歴史の教科書から消える人物として坂本龍馬の名が挙がったのである。
後編では、源頼朝や徳川綱吉を始めとした教科書の変化について解説する。
関連記事 : 「源頼朝の肖像画は別人だった」 今と昔でこんなに違う歴史教科書の変更点
知らなかった坂本龍馬が薩長同盟を結んだ裏方だと思っていた。
じゃあ、TVドラマは知っていてわざと龍馬を英雄にしていたのか?
凄くためになりました。知らないことは罪ですよね
源頼朝はあんな顔じゃあなかったのか?ためになった。
歴史好きなのに知らないことがこんなにあったのか?今の高校生と話したらきっと
バカにされるところだった。ありがとう草の実堂さん!rapportsさん