前篇では、渋沢栄一の知られざる功績である社会福祉事業について解説した。
貧困に苦しむ庶民の為に、「東京養育院」の院長となった渋沢栄一だが、思わぬ危機が訪れることとなる。
東京養育院 存続の危機
明治14年(1881年)東京養育院の廃止案が東京府議会に提案された。渋沢にはこのことは知らされてはいなかった。
明治12年(1879年)からは東京養育院の運用は七分積金ではなく東京府の税金で賄われており、「貧民を救うために多額の税金を使うことはやめろ」との声が上がったのである。
ジャーナリストの田口卯吉は「渋沢は惰民製造の本尊だ。渋沢が余計なお節介をするから惰民が増加する。養育院にいる惰民を一斉に追い出せ」と渋沢を名指しで批判した。
当然、渋沢は「一国の首府でこの位の設備を持って救民を救助することは絶対に必要である。救わないのは無慈悲な暴政である」と真っ向から反対した。
渋沢は議会に廃止案の撤回を働きかけたが、議員たちは廃止案を指示した。
この頃、明治政府は「富国強兵」をスローガンに産業の近代化を推し進めていた。
紡績や造船などの工業を発展させ、西洋列強に対抗できる国にしようとしていたのだ。
「富国強兵」論者からすると養育院の維持費は無駄であるという。
それは今で言う「弱者の切り捨て」である。
渋沢は東京府知事に「もし、この施設を欠けば餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう、将来を考えれば廃止すべきものではない」という建議書を提出した。
渋沢からすれば、養育院の廃止などありえないことであったのだ。
「養育院の人々の命と生活を守るために、この窮状からどう抜け出せばいいのか?」と渋沢は苦悩し、生活困窮者を惰民と決めつける府議会と真っ向から対立した。
しかし渋沢の懸命な訴えにもかかわらず、養育院は明治17年(1884年)をもって廃止と決定する。
そこで渋沢は「府議会がこれほど無情なら、今後は養育院を独立させて私が経営する」と啖呵を切ったのである。
渋沢は養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出た。
民間資金での運営継続
渋沢は運営資金の捻出に知恵を絞り、ここから渋沢の挑戦が始まる事となる。
渋沢はまず、完成したばかりの鹿鳴館に目をつけ、政府高官や財界の婦人たちに働きかけて日本で初めてのチャリティーバザーを開いた。
手袋・足袋・人形・絵画などおよそ3,000もの品がオークションに出品され、売上は3日間で7,500円(現在の価値でおよそ6,800万円)にも及んだという。
さらに渋沢は財界の篤志家(とくしか : 社会奉仕・慈善事業などを熱心に実行・支援する人)を一人ひとり訪ね、経済人から寄付を仰いだ。
寄付者の名簿の最初の名には渋沢の名があった。渋沢はまず自分が率先して寄付したのである。
次に三井財閥の幹部や大倉財閥の創設者・大倉喜八郎らが並んでいた。
渋沢は寄付を集める時は、必ず大きなカバンを持ち歩き、相手に差し出した。
実業界の大物は、渋沢に促されると誰も寄付を断れなかったという。
人々は陰でこのカバンを「泥棒袋」と呼んだというエピソードが残っている。
「渋沢さんが寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう。渋沢さんが長生きされるとこちらの身代が持たないよ」という冗談話もあったという。
渋沢はこうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用して資金を増やしていった。
明治18年(1885年)には3万5,031円だった養育院の資金は、明治23年(1889年)には11万104円にまで増えた。
かくして寄付の文化の馴染みが少ない日本社会で、渋沢は社会福祉事業の資金を確実に確保していったのである。
その後、養育院は拡大して収容者も増え、東洋一の福祉施設に生まれ変わる。
そして渋沢は福祉活動の対象者を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や病気で苦しむ人たちにまで広げ、医療や学術研究の施設や運営にも協力した。
さらに、当時は無かった保育所の構想も練っていたという。
晩年
明治42年(1909年)70歳になった渋沢は、銀行を除いて経済界から引退した。
しかし、社会福祉事業の活動は終生続けた。
昭和4年(1929年)世界大恐慌により日本でも失業者が続出、東北地方では深刻な飢饉に見舞われた。
国会では貧困者を救う「救護法」が制定されたが、予算がないことを理由に政府は「救護法」の実施を延期する。
「このまま貧困者たちの窮状を見過ごしていいのか?」と、福祉活動家たちは最後の頼みの綱として渋沢のもとを訪ね、「救護法」実現への協力を仰いだ。
90歳を過ぎ、病気療養中だった渋沢は活動家たちの話を聞くと「私はもうどれだけ生きられるか分からないが、私の命を皆さんに与えていくのは本望だ」と言って、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替えて大蔵大臣に面会した。
渋沢は「私たちが一生懸命に働いて日本の経済を成長させたのは、この時にこそ皆さんに役立てていただきたいからでした。渋沢の最後のお願いです。救護法を実施して下さい」と頭を下げた。
2年後、大蔵大臣は予算を工面して「救護法」の実施に踏み切り、24万人もの人々が救護された。
しかし渋沢は救護法の実施を見る前年の昭和6年(1931年)11月11日に死去、享年91であった。
おわりに
渋沢は明治6年(1873年)の日本初の銀行「第一国立銀行」設立を皮切りに、近代化に必要な様々な機関産業を立ち上げ「日本資本主義の父」として500以上の企業の設立や運営で華々しい活躍をしたことは知られている。
その一方で、社会福祉事業や慈善事業や教育、医療機関にも尽力して600以上の施設や団体などに携わった。
利益を独占しないで、生活困窮者や生活弱者、病人などに惜しまない援助をした渋沢栄一の理念は「仁義道徳」であった。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ
仁義道徳から離れた権謀術数的な商才は、真の商才ではないと渋沢栄一は語っている。
関連記事 : 渋沢栄一の知られざる功績 ~前編「社会福祉事業を終生続ける」
この記事へのコメントはありません。