幕末明治

全身入れ墨の美人盗賊~ 雷お新 「伊藤博文を美人局で脅し、死後、入れ墨は人体標本に」

 

雷お新

画像.雷お新 ※鈴木金次郎 編『新編明治毒婦伝』. 国立国会図書館デジタルコレクション

明治の初め、美貌を武器に暗躍した雷お新という女盗賊がいました。

全身に施された入れ墨は彼女の死後、標本となり、博覧会に出品され新聞にも取り上げられました。

今回は映画やお芝居にもなった雷お新の生きざまについてご紹介します。

出自

雷お新は、嘉永3年(1850)、土佐藩士の娘として生まれました。かなりの美貌の持ち主で、細身で背が高くスタイルも良かったようです。

お新は若くして結婚したものの嫁ぎ先とうまくいかず離縁し、明治元年(1868)、18歳で大阪に出て来ました。

しかし頼る人もなく、彼女は生きるために悪事に手を染めていきます。

雷お新

画像.脅迫して立ち去る雷お新 ※鈴木金次郎 編『新編明治毒婦伝』. 国立国会図書館デジタルコレクション

全身に施された入れ墨

お新は宿屋で寝ている客の荷物から金品を盗む「枕探し」を手始めに、万引きや恐喝、窃盗などの悪事を重ねていきました。

女盗賊「雷お新」の名が知れ渡るようになると、彼女の気風の良さにほれ込んだ子分が集まるようになり、おしんは「姐御」と慕われるようになります。たくさんの子分を従え、女頭領となったお新は、全身に入れ墨を入れることを決意します。

19世紀前半、歌川国芳(くによし)が、全身に入れ墨の入った『水滸伝』の登場人物の浮世絵を描いたことが評判となりました。これにより『水滸伝』の豪傑たちの入れ墨は人気となり、九紋龍史進(くもんりゅうししん)や花和尚魯智深(かおしょうろちしん)などの勇猛な人物の図柄が特に好まれたといいます。

画像.九紋龍史進 ※歌川国芳 九紋龍史進 public domain

画像.花和尚魯智深 ※歌川国芳 – 通俗水滸伝豪傑百八人之一個 花和尚魯智深.パブリックドメイン美術館

お新も腹部に「九紋龍史進」と「魯智深」の入れ墨を入れていました。

さらに、背中には溪斎英泉(けいさいえいせん)の浮世絵「弁財天」と「北条時政」。お尻には竜、股から腿にかけては「岩見重太郎の大蛇退治」、右腕に「金太郎」、左腕には4人の人物に緋桜と、お新は全身に隙間なく入れ墨を施したのです。

入れ墨をフル活用

入れ墨は悪事を働く際にとても役立ちました。

お新はその美貌を武器に金持ちを誘惑し、宿へと誘い込みます。そこで着物を脱ぎ、全身の入れ墨を見せながら脅して金を巻き上げるのです。

この手口には明治の偉い方々も被害にあったそうで、初代首相・伊藤博文もその一人でした。

雷お新

画像 : 伊藤博文 wiki c

掃いて捨てるほど女がいたことから、伊藤が付けられたあだ名は「ほうき」。女遊び、芸者遊びが大好きで、それが元で伊藤は破産して家を失ってしまうほどでした。

一国の首相がホームレスというのはさすがにまずい、ということで建てられたのが首相官邸です。そんな女好きの伊藤は、まんまとお新の手口に引っかかり、身ぐるみはがされ逃げ出したそうです。

もう一人、西郷隆盛の弟・従道(つぐみち、じゅうどう)にもお新との逸話があります。

雷お新

※西郷従道。wikiより引用

従道は海軍の元帥にまで上り詰めた政府の重鎮です。彼をカモにしようとしたお新が入れ墨を見せて凄んで見せたところ、「おいどんも!」と言ったかどうかは分かりませんが、お新に負けじと従道はもろ肌を脱いで、自分の入れ墨を見せつけてきたのです。

新政府誕生以前、薩摩の密偵として活動していた従道には、背中に花和尚魯智深大蛇退治(かおしょうろちしんだいじゃたいじ)、両腕には昇り竜・降り竜の彫物がありました。これには、さすがのお新もほうほうの体で逃げ出したということです。

ついに逮捕される

雷お新

画像.脱獄 ※鈴木金次郎 編『新編明治毒婦伝』. 国立国会図書館デジタルコレクション

入れ墨を入れてから雷お新の悪名は全国に知れ渡り、手下の数もますます増えていきます。悪行はさらにエスカレートし、お新たちは強盗をするまでになっていました。

明治7年(1874)、ついに雷お新は逮捕されます。強盗の罪で終身刑を言い渡されますが、明治15年(1882)、なんと嵐の中で脱獄を成功させます。

拠点を東京に移し、お新は窃盗や恐喝を繰り返していましたが、翌年再び逮捕され、明治22年(1889)に赦免されました。

しかし自由の身になったのもつかの間、翌明治23年(1890)、お新は流行り病のため40歳で亡くなりました。

標本になった入れ墨

お新は自分の入れ墨によほど思い入れがあったのでしょう。彼女の遺言は、「皮膚をはいで入れ墨を残してくれ」というものでした。

遺言によってお新の全身の皮膚は剥がされ、ナメシ革にされました。見事な入れ墨の入った皮膚の標本は、大阪医学校(大阪医科大学の前身)で保存されることになります。

その後標本は、衛生博覧会(展覧会)などに出展されました。衛生博覧会(展覧会)は、結核の予防や撲滅、伝染病の予防と対策といった国民の衛生思想の向上普及を目的として、明治時代半ばから昭和40年代まで日本各地で開かれた催しものです。

主催者は国や自治体、警察、病院、学校などさまざまで、展示内容は生身の人間から寄生虫・細菌標本、疾病標本、胎児標本、臓器、死体、ミイラなど多岐にわたります。初期には学術的な展示が多かったものの、時代が下るにつれ「エログロ展覧会」と揶揄される見世物的な展示が多くなっていきました。

それでも多くの庶民が足を運ぶ、盛況なイベントだったようです。

衛生博覧会の「保存液につけた生首10級」や「梅毒になった女性器」、「強姦殺人現場」、「出産のシーンの女体模型」といった展示物に混ざって、大の字に広げられた雷お新の全身の皮膚のナメシ革は、壁面高く展示されていました。

入れ墨標本は、現在、大阪医科大学には保管されていません。戦争で失われたという噂や見世物目的で香具師の手に渡ったとの風聞もあり、その所在は不明となっています。

参考文献:綿谷雪.『近世悪女奇聞』

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