幕末の志士・坂本龍馬といえば、その勇ましい活躍で知られています。
激動の時代を生き抜いた龍馬ですが、妻・おりょうとのあいだには、いくつもの興味深いエピソードが残されています。
とくに、新婚旅行先での2つのエピソードは、二人のほっこり感と神をもおののく恐ろしさ、両極端な素顔を垣間見ることができます。
寺田屋遭難、全裸で龍馬を救ったおりょう
龍馬とおりょうは、京都・七条新地で出会いました。
当時、おりょうは「扇岩」という料理旅館で奉公として働いており、そこには多くの志士が通っていました。
その中の一人に龍馬がいたのです。
おりょうが残した回顧録によると、龍馬と初めて会ったとき、名前を聞かれたので紙に書くと同じであることがわかり、その日をきっかけに二人は親しくなっていったとのことです。
そして、元治元年(1864年)、祝言をあげ結婚。
ところが、幕府のお尋ね者となっていた龍馬は、おりょうを京都・伏見の船宿「寺田屋」に預け、各地を奔走することになりました。
慶応2年(1866年)1月、龍馬は「寺田屋」で捕吏(罪人を捕まえる役人)に襲われてしまいます。
このとき、入浴中だったおりょうは、全裸で階段を駆け上がり、龍馬に敵が来たことを知らせに行ったと言われています。
おりょうの機転と所持していた短銃で、龍馬は九死に一生を得て無事に脱出成功。
しかし、この「寺田屋遭難(坂本龍馬襲撃事件)」が起こったことで、龍馬は京都や大坂の街を気軽に出歩けなくなってしまいました。
さらに、龍馬は両手を斬りつけられる深手を負っていたため京都を離れ、西郷隆盛の斡旋で薩摩藩邸で過ごすことになったのです。
「日本人初の新婚旅行」の実態は、逃亡と湯治
2か月後、二人は長州(長崎)経由で薩摩(鹿児島)へ向かい、霧島周辺の温泉を巡りました。
この旅路が、後世に「坂本龍馬は日本人で初めて新婚旅行をした」という有名なエピソードとして語り継がれることになりました。
しかし、実際は幕府の追手から逃れるため、また傷を癒すためにやむなく京都を離れることになったので、現代の私たちが想像する新婚旅行とは違った趣だったのかもしれません。
薩摩に着いた二人は、現地藩士から湯治の誘いを受け、日当山温泉、塩浸温泉に滞在した後、同じく湯治をしていた薩摩藩家老の小松帯刀を見舞いました。
とくに、日当山温泉は昔から薩摩の武士たちにとって傷や病気を治す定番の温泉地で、現在でも鹿児島の湯治場として有名です。
西郷隆盛も無類の温泉好きだったといい、明治維新後たびたび日当山温泉で静養していたといいます。
小松帯刀が霧島登山に持たせた弁当「カステラ」
小松帯刀を見舞って談笑しているうちに、おりょうが突然「霧島山に登ってみたい!」と言い出します。
霧島山は、現在の宮崎県と鹿児島県の県境に広がる火山群で、現代の成人男性でも登り切るのが難しいほど険しい山として知られ、しかもその中の高千穂峰は当時、女人禁制でした。
しかし、おりょうは勝ち気でプライドの高い性格。一度「やりたい!」と言い出したら誰が止めても聞き入れません。
そんなおりょうの性格を熟知していた龍馬は、おりょうに男装をさせて登山することにしました。
二人が出発する時、小松帯刀が
「登山に握り飯は禁物だから、これを弁当に」
と持たせてくれたのが「カステラ」でした。
登山で疲れた身体には、消化の遅い握り飯より、素早くエネルギーチャージできる甘いものの方が効果的という小松帯刀の心遣いでした。
卵と砂糖がたっぷり使われた甘いカステラは、ポルトガル人宣教師によってもたらされた南蛮菓子で、幕末にはすでに特上の洋菓子として地位を確立していました。
おりょうは晩年、霧島山登山の際に龍馬とカステラを食べたことを楽しげに語っていたと伝わっています。
高千穂峰山頂で「天の逆鉾」を引っこ抜いたおりょう
カステラを食べて元気になった二人は、霧島山の主峰、標高1574mの高千穂峰にたどり着きます。
山頂には、天孫降臨を象徴する場所として現代でも有名なパワースポット、「天の逆鉾(あめのさかほこ)」がそびえ立っていました。
「天の逆鉾」とは、日本神話で「イザナギ」「イザナミ」の夫婦神が地上の混沌を掻き回して日本列島を作ったと伝わる、霧島東神社の社宝です。
しかし、誰が何のために高千穂峰に突き刺したものなのか、さまざまな説があり、現在も謎に包まれています。
龍馬とおりょうは、高千穂峰の山頂に立つ「天の逆鉾」を見て、「少しいたずらしてやろう」と思い立ちます。
二人はなんと、その逆鉾を「えいや!」と引き抜いてしまったのです。
龍馬が姉の乙女に書いた手紙には、天の逆鉾のスケッチとともに、
「天の逆鉾には滑稽な天狗のお面があり、二人で笑いました。
鉾を少し動かしたら簡単に動いたので、おりょうと抜いて元通りに戻しました。」
と書かれています。
ところが、おりょうの回顧録『千里駒後日譚』には、それとは真逆の内容が残されているのです。
「鉾の上は天狗の面を二つずつ付けて一尺あまりもありましょうか。中は空で軽いのです。
私が『抜いてみとうございます』と言うと、
龍馬は『やってみよ。難しけりゃ手伝ってやる』と笑っておりましたが、
同行者の田中吉兵衛さんは顔色を青くして、『それを抜けば火が降ると昔から伝わっているので、やめてください』と言う。
私は『なあに、大丈夫』と鉾の根の石をさっさと払いのけ、ひと息に引き抜いて、倒したままで帰りました。」
とあり、天の逆鉾を引き抜いたのはおりょう一人で、しかも元に戻さず倒したままその場を去っていたというのです。
さらに、おりょうの別の回顧録『反魂香』には、
「実は龍馬も一緒に山へ登って、面白半分手伝って抜いたのです。」
とも残されており、話を総合すると、天の逆鉾を引き抜いた首謀者はおりょうで、龍馬も面白半分いたずらに加わったということのようです。
国を動かした幕末の志士が実は、今でいう迷惑YouTuberのようないたずらを無邪気に手伝っていた、ということだったのかもしれません。
こうして薩摩旅行を終えましたが、その後、おりょうは「月琴を習いたい」と長州に留まり、龍馬は再び国事に東奔西走する日々へと戻りました。
その翌年の慶応3年(1867年)11月、龍馬は暗殺されて帰らぬ人となり、二人は今生の別れを果たすことになったのでした。
夫婦であったのは、たった3年の月日でした。
「日本を洗濯する」と革命に燃えていた龍馬が31歳という若さでこの世を去ったのは、おりょうの神器へのいたずらによる天罰も影響していたのかもしれません。
ちなみに、海援隊の雑記録『雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)』には、「カステイラ仕様」というカステラのレシピが残っています。
龍馬は、霧島山でおりょうと食べたカステラの味を忘れられず、後世に遺したのでした。
参考 :
『たべもの日本史』 著:永山久夫
『信長の朝ごはん 龍馬のお弁当』 編集:俎倶楽部
天逆鉾 | 高原町観光協会
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