江戸から明治にかけて、庶民の娯楽として親しまれた浮世絵。
人気の絵師たちは卓越した画力・独特の個性を持つ作品で、人々の心を虜にしていました。
そんな絵師の中でも特に異彩を放っているのが、幕末から明治にかけて数多くの作品を残し、自らを「画鬼」と名乗った男・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)です。
写生のためなら、「落ちていた生首さえも拾って帰る」……そんな河鍋暁斎の奇行ともいわれたエピソードをご紹介します。
目次
「画鬼」河鍋暁斎とは
河鍋暁斎は、1831年5月18日(天保2年)に、下総国古河石町(現在の茨城県古川市)にて、古河藩士の河鍋記右衛門(かわなべきえもん)の次男として誕生。
幼名は周三郎(しゅうさぶろう)といいました。
暁斎が生涯の生業となる「画」を描くために筆をとったのは、わずか3歳と伝わっています。そのときに写生で描いたのが「蛙(かえる)」。
「蛙の写生に始まり、蛙の墓に終わる」といわれたほどの蛙好きでした。
そのまま正確にリアルに描くよりも、サイズ感などは無視したユーモラスで擬人化されたストーリー性を感じる作品が多いのが特徴です。
1837年(天保8年)、暁斎はまだ子どもながらも浮世絵師・歌川国芳に入門します。
その際、国芳は「さまざまな形態を注意深く観察すべき」と教えました。この教えを忠実に守った暁斎は、画帳を片手に1日中、貧乏長屋などを巡り、人々が喧嘩や口論をしている様子を探し歩いたそうです。
洪水で川から流れてきた「生首」を拾って帰る暁斎
1839年(天保10年)、暁斎が8〜9歳くらいの頃。ある日、江戸の神田川は梅雨時期のために水量が増していました。
ごうごうと流れる川面を眺めていた暁斎は、流れに乗って何かの塊が足元まで流されてきたことに気が付きます。
なんだろうとよく見ると、それは「男の生首」だったのです。
普通なら、特に子どもならば、悲鳴を上げて逃げ出すところですが、暁斎は違いました。
以前、人形の首を写生した際にリアルに描けなかったことを思い出し、恐怖よりも写生のチャンスだと捉えたのです。
「これはちょうどいい!」と、彼はその生首を家に持ち帰り、写生に励みました。
暁斎のこのエピソードは、彼が後に「画鬼」と称されるほどの技術と情熱を持ち続けた理由の一端を垣間見ることができる出来事です。
暁斎ならではのエピソード
こうして、歌川国芳の門下生として才能を発揮していた河鍋暁斎ですが、国芳が幼い暁斎を吉原の遊廓に連れて行ったことなどから、心配した父親によって二年ほどで国芳の画塾を辞めさせられてしまいました。
その後、暁斎は狩野派の前村洞和のもとに弟子入りしました。
洞和は、暁斎の才能を認め「画鬼」と呼び、可愛がったそうです。
燃え盛る炎や巨大な鯉も写生の材料
1846年(弘化3年)、暁斎が15〜16歳くらいの頃にも、周囲を驚愕させたエピソードがあります。
ある日、預けられ先の屋敷の近所で大火事が発生し、家々が次々と炎に包まれて燃えていきました。逃げ惑い混乱する人々の中で、暁斎は逃げるわけでも消火活動をするわけでもなく、ただひたすらに炎を見つめて写生を続けたそうです。
燃えていく屋敷や炎に対する恐怖心よりも、目の前で燃えているリアルな炎を写生することが暁斎にとっては重要だったのです。
さらに、狩野派門弟時代のエピソードとして「鯉」の話もあります。
塾生仲間と川遊びに行った暁斎は、3尺(約90〜105cm)ほどの大きな鯉を捕まえました。暁斎は仲間を置いて鯉をたらいに入れて塾に持ち帰り、うろこの数も正確に数えて忠実に写生しました。
塾生仲間は写生を終えた暁斎に「その鯉を殺して食べよう」と提案しましたが、暁斎は「あらゆる部分を写生させてもらった以上、この鯉は我が師。礼を尽くして天寿を全うさせてやらねば」と大反対したのです。
その提案を聞き入れず、兄弟子が料理をしようと包丁を入れようとしたとき、鯉が激しく飛び上がって暴れたため、無事に鯉は近くの池に放たれることになりました。
この一件があったからこそ、暁斎は「鯉を精密にリアルに描ける技術が備わった」と後に語っています。
「女の尻を追いかけている」と誤解される
その後、異例の速さで狩野派の免状を与えられた暁斎は、1849年(嘉永元年)に18〜19歳の頃、画号「洞郁陳之(とういくのりゆき)」を授かりました。そして洞白の紹介で館林藩秋元家の絵師、坪山洞山(つぼやまとうざん)の養子となります。
その頃、御殿女中が身に付けていた非常に珍しい柄の帯に興味を持ち、後を追いかけて写生しようとしましたが、「女の尻を追いかけていた」と誤解されてしまうこともありました。
1852年(嘉永5年)頃、そのような噂が広がり、さらに遊興の影響もあり、真面目な養父であった坪山から離縁されてしまいます。
その結果、暁斎は狩野家や実家とも上手くいかず、孤独な立場に立たされることになりました。
安政江戸地震後の「なまず絵」が評判に
画号「洞郁陳之」を名乗った河鍋暁斎は、様々な人々の家に居候しながら羽子板の絵を描いて生計を立てていました。それでも画への情熱を失うことはなく、土佐派、琳派、円山・四条派、漢画、浮世絵など、あらゆる流派を学び、その才能をひとりで磨き続けました。
そして1855年(安政2年)10月2日に安政江戸地震が起こります。
大地震の翌日、暁斎は戯作者であり新聞記者の仮名垣魯文と組んで、戯作鯰絵「お老なまず」を売り出しました。
この絵は、大地震で壊滅した吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、女性と鯰の姿をした遊び人を描いたものです。この「お老なまず」は大評判となり、一躍話題となりました。
この頃から、暁斎は「惺々狂斎(せいせいきょうさい)」を名乗り始めました。注文されたものであれば何でも描きながら、狂画(滑稽で風刺的な絵)も数多く描いていたようです。
多くの外国人と懇意になる
1870年(明治3年)、暁斎は上野不忍弁天境内の料亭で開かれた書画会にて、貴顕(身分が高く名声のある人物)を批判する狂画を描いたため、その場で捕縛・投獄されました。(春画だったという説もあります)
その後、釈放された暁斎は画号を「暁斎」に改めました。
1876年にはフィラデルフィア万博博覧会、1881年には第2回内国勧業博覧会に作品を出品しました。当時、政府が積極的に開国政策を行なった影響もあり、国際的な交流が活発になっていたのです。
暁斎は多くの外国人と交流し、その中でも特に厚い親交を結んだのが、鹿鳴館の設計者として知られるイギリスの建築家ジョサイア・コンドルでした。
コンドルは暁斎に入門し、熱心に画の技巧を学びながら深い友情を育みました。
暁斎の作品は世界的に高い評価を得て、国内外に多くのファンを増やしていきます。
その後も浮世絵・戯画・春画・仏画ほかさまざまなジャンルの画を精力的に描き続けた暁斎は、晩年には、日本美術院を結成した岡倉天心やアメリカの東洋美術史家アーネスト・フランシスコ・フェノロサから、東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)で教鞭を執ることを依頼されました。
暁斎の最後
しかしながら、暁斎は病にふせっていたためにその依頼を断念、1889年(明治22年)4月26日、コンドルに看取られながら57歳で胃がんでこの世を去ったのです。
暁斎の訃報は、日本のみならずフランスのパリの新聞でも報じられました。
天才画鬼・河鍋暁斎の墓は、台東区谷中の瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。暁斎が幼いときから愛した蛙の形をした自然石を使用した個性的なお墓です。
写生のためなら生首さえ拾ってくるような暁斎でしたが、画を愛する情熱・驚くほど細かい描写力・個性的な発想力・大胆な構図など、その作品群は、観るものを魅了してやみません。
現在でも、国内外の美術愛好家・アーティスト・漫画ファン・タトゥーアーティストなど、幅広い人たちから愛され続けています。
参考:
河鍋暁斎の筆禍事件と春画――暁斎評価の変遷との関わりにおいて(アカデミア)
ゴールドマン コレクション「これぞ暁斎!」世界が認めたその画力 (Bunkamura)
河鍋暁斎 その手に描けぬものなし(サントリー美術館)
河鍋暁斎 生首を写生する(NHK DJ日本史 読むらじる)
美術手帖 アーティスト 河鍋暁斎
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