薩摩藩内での身分は低かったものの、西郷隆盛は薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)によって異例の抜擢を受けた。
そして、二人は事あるごとに意見を交わし、さらに斉彬は当代の知識人を西郷に引き合わせた。こうして西郷は見識を広めてゆく。
先見の明
嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖に現れたアメリカの東インド艦隊、いわゆる黒船は日本国内に衝撃を与えた。幕府の弱腰を見て、攘夷を唱える武士が巷に溢れていったのである。
蘭癖(らんぺき)大名と呼ばれた曾祖父の島津重豪(しげひで)の薫陶を受けて育った斉彬は、藩主に就任して以来、藩の富国強兵に努め、洋式造船をはじめ、反射炉や溶鉱炉の建設、地雷や水雷、ガス灯などを製造する集成館事業を興していただけに、この事態を冷静に判断する目を有していた。
黒船が来航すると、斉彬は遠からず日本は開国を選択することを確信し、安政元年(1854年)には洋式帆船「いろは丸」を建造。帆布(はんぷ)を自前で作るために、洋式の木綿紡績事業まで始めている。
意見を交換する間柄に
そんな斉彬は江戸生まれの江戸育ちであったため、外国情報や中央政治には精通していたものの、国元の事情には疎かった。そのため藩政改革に関する意見を身分を問わずに求めたのであった。そこで西郷の意見書に注目し、江戸へ出府する際に、西郷を共に加えることにしたのである。
当時、江戸の薩摩藩邸は高輪(品川)周辺に置かれた。当時は現在よりも江戸湾が深く入り込んでいたため、中屋敷や蔵屋敷はほとんど海に面していた。
篤姫が輿入れしたときに最初に入った上屋敷、上屋敷が使用できない際の居所となる中屋敷、年貢米などを販売するための倉庫兼用邸宅である蔵屋敷などが集中していた。そして、後にこの蔵屋敷で西郷と勝海舟の対談が行われることになる。
江戸に到着すると斉彬は、西郷を庭方役に抜擢した。庭木の世話をするのが役目だが、時にはスパイのような役目もこなす。
だが、斉彬が西郷に期待したのは、面と向かって意見を交換することであった。当時は身分制度が厳しかったため、下級武士だった西郷が藩主に直接会うことはできない。だが、庭を散歩している最中、偶然見かけた庭方に藩主が話しかけた、という態にすれば会話を交わすことも可能だったのだ。
こうして斉彬は、自らが逸材と目を付けた西郷を身辺に置き、意見を交わしつつ彼を教育した。
西郷を使いこなせるのは斉彬だけ
西郷の教育の一環として斉彬は、積極的に他藩の人物と西郷を引き合わせている。
水戸藩の代表的な人物であった藤田東湖(とうこ)や、博識で知られた越前藩士の橋本左内、後に水戸天狗党の首領となる武田耕雲斎などである。
こうして西郷は斉彬の薫陶や当代きっての知識人たちと交わり、時事問題や政治のあり方を身につけていった。そんな西郷のことを斉彬は「使いこなせるのは自分だけ」と言っている。というのも西郷の情の深さが時として間違った方向に流されてしまうことがあったからだ。
一時期、水戸藩の攘夷論に傾倒し、西洋文化の研究に力を注ぐ斉彬の姿がそれに反するのではないかと心配した。
それに対して斉彬は「諸外国が競って我が国を食い物にしようとしているのに、西洋の進んだ文明を無視して攘夷に走るのは、いたずらに国を滅ぼすこと」と言って西郷をたしなめたのだ。
西郷への期待
実際、斉彬は開国論も攘夷論も唱えていない。
どちらにせよ、外国の事情を知らなければ決められないと考える「超現実主義者」なのだ。まずは国力をつけること、それには西洋の優れた文明を大いに取り入れる、それが斉彬の考え方であった。こうして諸藩の人との交わりを薦めたり、事あるごとに間違いを正すのは、それだけ西郷に期待していたからである。
斉彬はさらに将軍家への輿入れが決まった篤姫(あつひめ)の嫁入り道具調達の一切を西郷に任せた。その仕事を通じて一橋慶喜の将軍継嗣に関する政治工作に奔走。京の公家たちとの付き合いにも、この経験が大いに役立ったのだという。
島津斉彬が残したもの
こうして西郷の才能を伸ばした斉彬だが、薩摩藩の政にも力を注いでおり、斉彬が行った日本最初の洋式産業群は、総じて「集成館事業」と呼ばれている。それは、製鉄、造船、紡績に力を入れることで、大砲から武器弾薬、食品、薩摩切子などのガラス製品といった様々な分野のものを製造した。
洋式帆船だけでなく、日本初の蒸気船「雲行丸」も建造している。
斉彬が行った事業が他藩と一線を画しているのは、軍事力の増強だけでなく殖産興業の分野にまで広がっていた点だ。斉彬の死後には一時縮小されたが、薩英戦争後に再び力を入れている。
最後に
西郷と斉彬の信頼関係は、当時の主従関係を超えていた。斉彬は西郷に日本の将来を任せることに決め、自らは藩政に力を入れていたようにも思える。さらに斉彬を名君たらしめているのは、西郷に引き合わせた人々とのパイプである。
この出会いがなければ、西郷の活躍もなかったのだ。
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