江戸時代

「生類憐れみの令」は本当に悪法だったのか? 徳川綱吉の思想と社会的背景から検証[前編]

1603年から約260年続いた江戸時代の中で、1688年から1704年までの期間を元禄時代という。

時の将軍は、5代・徳川綱吉

江戸幕府は、ほぼ中期にあたるこの元禄時代に最盛期を迎え、以降は徐々に下降線をたどることになる。

元禄時代が繁栄した理由は、諸産業の発展によって貨幣経済が隆盛したことにある。そして、その担い手である町人(商人)が台頭し、社会は一気に活気を呈した。

彼らの力は経済だけでなく、上方(京都・大坂)を中心に独特の元禄文化を生み出した。

そんな時代に後々まで天下の悪法として名を残し、徳川綱吉の歴史的評価を著しく貶めたともいえる「生類憐みの令」が、綱吉自身により発せられた。

今回は、「生類憐みの令」が本当に悪法だったのか、綱吉の思想を含む人物像、そして元禄という時代の社会的な背景から探っていく。

[前編]では、一般に知られている「生類憐みの令」の概要と、徳川綱吉の人物像について考察していこう。

生類憐れみの令の概要

画像:中野お囲いの犬の像 wiki.c

生類憐みの令」とは、一般的にどのように認知されてるのだろうか。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、以下のように記されている。(一部省略)

「江戸幕府5代将軍徳川綱吉が、下した動物愛護を主旨とする法令の総称。1682年(天和2)犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり、85年(貞享2)馬の愛護令を発して以来、法令が頻発された。

綱吉の意図は社会に仁愛の精神を養うことにあったが、将軍の強大な権威に迎合する諸役人によって著しく増幅され、また綱吉生母桂昌院が帰依した僧隆光が、戌年生まれの綱吉に男子が育たないのに関して犬の愛護を勧めてから、いっそう極端に走り、人民を悩ます虐政へと発展した。愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及んだ。

1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。

1709年(宝永6)綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣はこれを廃止した。」

「生類憐れみの令」は、1回で発布された法令ではなく、綱吉の将軍時代に発令された法をまとめて呼んだものであった。

画像:仔犬図(円山応挙筆)

同法は綱吉が、”犬公方”と揶揄されたように犬の保護だけに焦点があたりがちだが、その対象は牛馬・魚介類など幅広かったことが分かる。

また、犬・馬・牛などの動物の遺棄や、食用・狩猟・飼育などへの規制が行なわれたが、漁猟を生業としている漁民などが魚を捕獲して販売し、庶民がそれを購入して食べることは禁止されなかった。

そして注目すべき点は、保護の対象が人間にも及んでいることだ。

1687年の法令には「捨て子は届け出なくてもいたわり、養うか、養育を望む者のもとにつかわすように」「犬だけではなく、すべての生類への慈悲の心によって憐れむように」と記されている。

また、「戌年生まれの綱吉が男子に恵まれなかったことを憂い、僧・隆光の勧めで犬の愛護を始めた」という通説は、隆光が生類憐れみの令の初発令時にはまだ江戸にいなかったことから、近年では否定されている。

さらに、「綱吉は死の間際にこの法令だけは死後も守るよう遺言した」とされるが、これを裏付ける確実な史料は確認されておらず、後世の創作である可能性が高い。

以上が一般に知られる「生類憐れみの令」のおおよその概要である。

徳川綱吉の将軍継嗣問題

画像:徳川綱吉像(土佐光起筆 徳川美術館蔵)wiki c M.Denko

法令というものは、その時代の社会的背景と、時の為政者の思想・性格などが重ね合わさることで発布されることが多い。
それは昔も今も変わらないが、民主主義という概念が皆無であった昔は、その傾向が顕著だった。

したがって、「生類憐れみの令」が発せられた理由を探るためには、元禄時代の社会的な背景と、綱吉の”人となり“を明確にしなくてはならないだろう。

先ずは、「生類憐れみの令」を発令した徳川綱吉の思想や人物像について考えていこう。

綱吉は、1646(正保3)年に3代将軍・徳川家光の四男として誕生した。家光が亡くなると兄の家綱が4代将軍に就任し、綱吉は15歳の時、館林藩25万石の藩主となった。

1680(延宝8)年、元来病弱であった家綱が危篤に陥ると、継嗣がいなかったために綱吉は5代将軍に就任する。

以後、1709年(宝永6年)に62歳で没するまで、29年間にわたり将軍職にあった。

画像:徳川家綱像(伝狩野安信画、徳川記念財団蔵)wiki.c

家光の実子でありながら、綱吉の将軍就任にはひと悶着あったようだ。

それは、家綱時代の大老・酒井忠清一派の執拗な妨害だった。

家綱は、「さようせい様」と呼ばれるほど政治能力が低かった。そこにつけこみ”下馬将軍”と称されるほどの絶大な権勢を保持したのが、大老・酒井忠清だったのである。

家綱の死後も権力維持を図った忠清とその派閥は、京都から有栖川宮幸仁親王を迎え、宮将軍とすることを画策した。
しかしそれを覆したのは、忠清と対立していた老中・堀田正俊らの勢力だった。「家光の血を引く綱吉こそが、将軍に相応しい」と主張したのだ。

こうして将軍となった綱吉は、直ちに忠清を罷免し、正俊を大老の座に据えた。
そして忠清が病死すると、酒井家の取り潰しを執拗に画策し続け、ついに忠清の弟・酒井忠能を改易に追いやった。

この綱吉の行動は、全くの意趣返しと捉えられても仕方がないだろう。

自らの将軍職に反対するだけでなく、宮将軍の擁立という徳川将軍を途絶えさせかねない意見を通そうとした忠清が、よほど憎かったに違いない。

画像:桂昌院像(長谷寺蔵)wik.c

さらに、綱吉の将軍職就任の妨げになった要因として、生母である桂昌院の出自問題もあったであろう。

日本では古代から近世まで、高貴な身分の家督相続においては、第一に母親の出自が重要視された。

桂昌院は、関白二条光平の家司・北小路太郎兵衛宗正を父とすると『徳川実記』にあるものの、生前からその出自については「西陣の織屋」や「八百屋の娘」という噂が絶えなかったのである。

朱子学に傾倒した徳川綱吉

画像:徳川綱吉像(法隆寺蔵)wiki.c

徳川宗家の血筋を引きながら生母の出自問題、幕閣の権力争いなどにより、将軍就任において不安定な状況にあった綱吉は、その思想的根源を儒学、それも朱子学に求めた。

儒学は、「仁」と「礼」に基づく各々の徳性と規範を説く教えだ。その中で、「理」を中心とする哲学的な思想を特徴とするのが朱子学だった。

徳川綱吉は、朱子学をことのほか重んじ、幕臣たちに自ら四書や易経を講義し、湯島聖堂を建立して儒学を振興したことでも知られる。
朱子学こそが、綱吉の人間形成の根本であると言っても差し支えないだろう。

朱子学は、社会における上下の身分秩序を当然のものとし、これを維持することが「理」に適うとする考え方を持つ。そのため、徳川将軍家を頂点とする幕藩体制の正統性を裏付ける思想として最適であった。

綱吉は、この朱子学の教えに従い、自らを頂点とする厳格な身分秩序を確立しようとした。また、親への孝養を重視する朱子学の理念に基づき、生母・桂昌院への崇敬を幕臣たちにも求めたのであろう。

画像:朱子学入門書『近思録』の和刻本(寛永年間の古活字版)wiki.c

こうして朱子学を尊重した綱吉は、諸藩の政治の監査や、幕府組織の改訂などを積極的に推進した。

そこには決裁権を幕閣に任せず自ら裁断する姿勢、有能な旗本の登用、外様大名の登用など優れた政治姿勢があった。
その治世の前半は、善政として「天和の治」と称えられたのである。

しかし、1684(貞享元)年に、将軍職就任に功労があった大老・堀田正俊が暗殺されると、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用し、側近のみによる専制色を強めていくようになる。

画像:桂昌院が再興した善峯寺の本堂 wiki.c

さらに桂昌院の考えに傾倒し、戦国時代に荒廃した社寺の復興やその実家・本庄氏の一族を大名の取り立てたりした。

特に社寺の復興事業には、莫大な財源を必要とした。これが、幕府の経済力低下を招いた一つの要因になったとされる。

そしてこの頃から、「生類憐みの令」を始め「貨幣の改鋳」など、後世に悪政といわれるような政策を次々と打ち出すようになるのであった。

[後編]では「生類憐みの令」を発するに至った元禄時代の社会背景を考察し、同令が悪法であったか検証していきたい。

参考 : 『日本大百科全書』『徳川実記』他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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