1月になると、日本各地の消防署で行われる『出初式(でぞめしき)』。
はしごの上で披露される軽やかな妙技、勢いよく空に向かう放水、整然とした分列行進……新年の幕開けらしい華やかな出初式には、多くの見物客も集まります。
実は、出初式は単なる現代の消防行事ではありません。江戸時代に誕生した「火消し」の文化を色濃く受け継ぐ伝統行事です。
その起源は、徳川幕府の時代、度重なる大火に悩まされた江戸の町にさかのぼります。
火消したちは、命がけで火と向き合う一方、粋や誇りを重んじる独特の文化を育んだヒーローでした。
まといを掲げはしごの上で技を競い、町を守ることに生きがいを感じ活躍した火消したちは、粋でいなせで江戸の町娘たちにモテモテだったとか。
今回は、現代まで引き継がれる「火消し文化」の経緯や、火消しの意外なエピソードを探ってみました。

画像:出初式 一斉放水(神戸市消防局/兵庫県神戸市のメリケンパーク) wikic 663highland
現代と江戸時代の伝統が重なり合った行事「出初式」
出初式は、日本の消防組織が正月に行う「仕事始め」にあたる行事です。
多くの自治体では1月上旬頃に実施され、消防職員・団員が一年の無火災と安全を願い、士気を高める場とされています。
内容は地域によってさまざまですが、共通して見られるのが「分列行進」や「放水演技」です。
一糸乱れずに整然と並んで進む「分列行進」、消防車から勢いよく水が放たれる迫力ある「放水演技」は、観客から歓声や拍手も湧き上がります。
さらに、地域によっては江戸時代の火消し文化を受け継ぐ「はしご乗り」が披露されることも。
粋な半纒姿で繰り広げられる木遣(きやり)歌や、高く組まれたはしご上の手に汗握る妙技は、江戸時代の町火消の心意気を今に伝えています。
このように、出初式は「現代の消防活動と、江戸時代から続く伝統が重なり合った行事」ともいわれています。
正月に行うのは、新年に地域の人々に安心を届けると同時に、火と向き合う覚悟を新たにする意味が込められているのです。
※木遣歌:江戸の中期頃には鳶職の人たちの間で歌われていたもの。大阪城築城(1583)のとき、作業の掛声や音頭とりの歌が木遣歌の起源となったとも。

画像:明治8年(1875年)の出初式 歌川広重 public domain
「出初式」の起源は、大火の多い江戸時代から
江戸の町は木造家屋が密集し、ひとたび火が出れば大火になりやすい構造でした。
関ヶ原の戦いの翌年から大政奉還の年までの267年間、49回大規模な火災が発生しています。
そのため「火消し」は、町の安全や人々の命を守るために欠かせない存在でした。
出初式の原型といわれる行事が行われたのは、万治2年(1659)。
江戸幕府の火消し役が、正月に上野東照宮で「顔見世」を行ったのが始まりとされています。
これは、前年の働きをねぎらい、“新しい年も火消しが万全であること”を内外に示すための儀式でもあったそうです。
火消したちが隊列を組み、装備や技を披露することで、「今年も江戸の町は守られる」という安心感を人々に与える役割も果たしていました。
やがてこの行事は、幕府直属の火消しだけでなく、町火消しにも広がっていきます。
町ごとに組織された火消したちは、まといやはしご乗りといった独自の文化を発展させ、正月の出初式はその腕前と誇りを示す場となっていったのです。
こうして出初式は、火消しの実務と精神を伝える年中行事として、江戸の町に定着。(金沢や京都などでも火消しは存在していましたが、江戸ほど大規模な制度化はされていなかったそうです)
そして、江戸の火消したちが正月に技と誇りを示したように、現代の出初式もまた、日頃の練習の成果を発表すると同時に、「今年も町を守る」という決意を人々の前で可視化する重要な行事でもあるのです。

画像:月岡芳年「月百姿 烟中月」public domain
江戸のヒーロー「火消し」とはどんな存在だったのか
「江戸三大大火(明暦・明和・文化)」は、幕府にとって大きな財政負担になりました。
そこで、第8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」の際、南町奉行大岡越前守忠相は、享保3年(1718)に町火消しを作り、2年後には隅田川の西側を受け持つ「いろは四十八組」、 東側の深川・本所を受け持つ「深川本所十六組」を編成。
本格的な町火消し制度を発足させたのでした。
江戸の火消しは、大きく分けると、武士による「武家火消」と町人による「町火消」に分かれ、武家火消は、幕府直属の定火消・大名火消に分かれていました。
なかでも一番庶民に身近な存在で、実際の消火活動の中心を担ったのが町火消しです。
通常は、職人や鳶であった町火消しのメンバーは、フットワークや現場での判断力と機動力に優れ、火事場では誰よりも早く駆けつけました。
仕事で重要なのは、火を「消す」ことよりも火を「広げない」こと。いち早く現場に駆けつけて、燃え広がる前に周囲の家を壊し、延焼を防ぎます。
この一見荒っぽく感じる方法は、江戸の木造家屋構造と街並みを考えれば、もっとも現実的な選択だったのでした。
強い責任感と誇りを持ち、命の危険と隣り合わせで火に立ち向かう姿は、町人たちの尊敬と憧れを集め、火消しは「粋な男」の象徴として語られていくようになりました。

画像:町火消し ac-illust naobim
火消しを象徴する「纏(まとい)」と「梯子(はしご)」
江戸の火消し文化を象徴する道具といえば、「まとい」と「はしご」です。
まといは、火事場で高く掲げられる旗のような存在で、“どの組が消火に当たっているか”を示す目印でした。
同時に、それは組の誇りそのもの。まといを一番高く掲げた組がその火事の主導権を握りました。
一方、はしごは消火活動に欠かせない実用道具でした。屋根に上り、火の回り具合を確認するため、火消したちははしごを自在に操る必要がありました。
単純に見世物ではなく、高所作業の訓練として生まれた技ですが、落下すれば即死という危険をともなうものでした。
その技術が洗練され、やがて正月の出初式で披露される「はしご乗り」へと発展。
この二つの道具には、江戸の火消したちが持っていた実務と誇り、そして文化が凝縮されているのです。
ちなみに、「いろは四八組」は、「へ」「ら」「ひ」「ん」は「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌い、それぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用されたといわれています。

画像:いろは組とその纏(落合芳幾)public domain
火消しにまつわる意外な話
町火消しは、職人や鳶が中心だったので、喧嘩っ早くて気風のよさが心情。
「粋な男」の象徴でもありました。
消火の主導権争いから、火事場で組同士が殴り合うことも珍しくなかったそうです。
さらに、火事現場では着物を脱ぐことも多かったために、全身の刺青が度胸と誇りの証でした。
これが江戸刺青文化の発展につながったといわれています。
火消しは、いわば江戸っ子のアイドルでした。
力士や侠客と並び、町の人気者として浮世絵や芝居にもたびたび登場し、「粋な男」の代表格として憧れを集めていたのです。
火消しの浮世絵といえば有名なのが「広重ブルー」で知られる絵師・歌川広重です。

画像:歌川広重 狂歌やまと人物 浮世絵検索 public domain
江戸城や江戸市中の消火活動に従事する役人、定火消同心の家に生まれた広重は、父の後を継ぎ定火消同心となりつつ副業として絵師の仕事もしていました。
火消しとしても優秀で、22歳のときには幕府より表彰を受け、定火消同心として現場と部下をまとめる役割も担っていました。
広重の描いた「江戸乃華」は、題材・構図・色彩・考証など全ての点で、火消経験がなければ到底描くことの得ない火事絵で、自身の火事現場での貴重な体験が描かれていると評価されています。
最後に
江戸の火消し文化は、時代に合わせて変化しつつも、現代に引き継がれています。
防災という実務的な面だけではなく、火消しにまつわる衣装や道具、人情ヒストリーなどにはさまざまな興味深い話がたくさんあるので、次の機会にご紹介したいと思います。
参考:
『江戸の火消し/江戸の三大大火』(東京消防庁)
『江戸時代大全』稲垣史生 (著)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
























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