江戸時代

上杉鷹山について調べてみた 【米沢の名君】

上杉鷹山

越後の虎こと上杉謙信の没後、上杉景勝の治世。天下分け目の合戦が関ヶ原で行われ、景勝は徳川家康に降伏すると、出羽国米沢30万石に減移封された。
御家取り潰しは免れたものの、あまりの凋落ぶりである。

時代は流れ、江戸の中期。出羽国米沢藩の第9代藩主、上杉治憲(うえすぎはるのり)は領地返上寸前の米沢藩を立て直さねばならなかった。この男こそ江戸時代屈指の名君として名高い上杉鷹山(うえすぎようざん)である。

(鷹山は隠居後の名であるが、ここでは鷹山で統一する)

家督と財政難を継ぐ男


※上杉神社 

寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主(宮崎県児湯郡の東部)・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

早くに実母を亡くしており、米沢藩先代当主・上杉重定の従兄弟でもある祖母の瑞耀院に引き取られ養育された。

宝暦9年(1759年)重定の娘、幸姫の婿養子として瑞耀院が話を持ちかけたことにより、翌年には上杉重定の養嗣子(ようしし=家督を継ぐ養子)となった。なお、その後に上杉重定には男児が生まれている。

そして、明和4年(1767年)に家督を継ぐ。このとき、鷹山16歳のことであった。

しかし、この頃の上杉家の財政事情は悪化の一途をたどっていた。
借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高で15万石でありながら、初代藩主・景勝の意向により会津120万石時代の家臣団6000人を召し放つことをほぼせず、人件費だけでも財政にとっては深刻な負担になっていたのだ。

鷹山の三大改革


※上杉神社内に設置されている米沢城下復元鳥瞰図

事態は前藩主・重定が藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほど切迫していた。

そこで、鷹山が手を付けなければいけない問題は大きく三つ。
ひとつは、財政の再建。ひとつは、産業の開発。最後に精神の改革である。

もちろん、これには先代任命の家老らとの厳しい対立があったが、鷹山は自らが動くことで必要性を見せた。それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額する。七分の一にまで倹約をして衣服や食事、本などをまかなったのである。

鷹山の米沢での生活費はさらに抑えた。日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけ、さらに奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約も行う。

ここまでされては、家臣たちも従わざるを得ない。もともと石高も低いのに「上杉」のプライドに縛られて分不相応な生活をしていただけである。倹約のしようはいくらでもあった。

他にも、米沢藩の支出を明確にするために帳簿を作り、「上書箱」という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけでなく、百姓(農民)や町人も意見書を入れることができるようにした。

産業を興し、精神を改革する

それまで雪深く、特産品もなかった米沢において、鷹山は米沢藩の強みを活かした特産品の開発に力を注いだ。米沢織や笹野一刀彫などの木工芸品、米沢成島焼などの焼き物など、実に様々な工芸品の開発を奨励した。

その一方で、農業生産を増やし、安定させることが重要と考え、上杉鷹山は、農民だけでなく、藩士に対しても田畑の開発を促す。藩士たちに田畑の開墾や治水のための土手修理などを実施させ、さらには藩士の次男・三男が田畑を開墾することも奨励したのである。

そして、一番重要だったのが「精神の改革」だった。

先にも述べたように上杉の家臣には不要なプライドが強かった。歴代家臣も上杉家へ仕えることを誇りとしていたからだ。それを削ぐために、鷹山はまたしても自らが手本を示してしきたりを変えた。

乗馬する位置」「祝いの席の料理」「普通は声を掛けない下級家臣にも声を掛ける」など、それまでしきたりとして「変えてはならない」とされてきたことばかりである。これは江戸時代において驚くべき行動である。しかし、鷹山にとっては当然のことをしたまでだった。なぜなら、「しきたり破り」は藩主として初めて米沢に入るときからはじまり、改革への意気込みを周囲に示したといわれているからである。

財政支出の削減と産業振興をはかった改革は「寛三の改革」と呼ばれた。

上杉鷹山の言葉


上杉神社に立つ銅像 2006年8月7日 Bakkai撮影

上杉鷹山は実に数々の名言を残している。その中でもっとも有名なのが、

『なせば為る 成さねば為らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』

である。

やろうと思えば何でも出来る。出来ないのはやろうと思わないからである。やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになることだ、という意味の言葉だ。

さらには農民のために藩内12ヵ所に郷村教導出役という役人を配置した。通常、役人は世襲制だったが、「優秀な人間であることが必須」と考えた上杉鷹山は優秀な人間を選んだ。

郷村教導出役には農民のために働くことを諭す七ヶ条を説き、自らも実際に状況を見て回ったという。

そして、天明5年(1785年)には若くして藩主の座を譲るのだが、そのときに養子の上杉治広に藩主としての心得を3条にして申し渡した。

一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。

この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

最後に

現在でも米沢市民には尊敬されており、鷹山だけは「」という敬称を付けて呼ぶことが多いという。

そんな鷹山が、いかに領民に寄り添った姿勢だったかがわかる逸話が残っている。

ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで困っていた老婆を二人の武士が助けてくれた。お礼に後日餅を持参したいといったところ、招かれたのは米沢城であり、渡す相手こそ鷹山であった

というものだ。

侍どころか、殿様が稲の取入れを手伝うなど普通は考えられないが、これが鷹山という男であった。

 

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