松平を名乗らなかった 保科正之
保科正之(ほしなまさゆき)は、江戸時代の初めに稀代の名君と呼ばれた大名でした。
会津松平藩の初代藩主であり、第三代将軍・徳川家光、四代将軍・家綱の治世に貢献した人物でもあります。
正之は、二代将軍・秀忠の子である為、家康の孫であり、家光の異母弟にあたる血筋でした。しかし母が正室でも側室でもなかったため、秀忠の側近が正室・江に憚ってその存在を伏して育てられたと言います。
後に保科家を継いだ正之でしたが、幕府から松平を名乗ることを推奨されても、養育先の保科家を憚って自らその姓を名乗ることはありませんでした。
保科家の養子として藩主へ
正之は、慶長16(1611)年に二代将軍・秀忠と乳母の侍女だったお静の間に生まれた子でした。
この時代の将軍家では大奥の序列を保つため、正室・側室以外から生まれた子供は、養子に出されるのが習わしでした。
このため正之は、武田信玄の次女・見性院に預けられ、幸松と名付けられて育ちました。
その後正之は、見性院の伝手で元和3年(1617年)に高遠藩主であった保科正光の養子となり、正光が寛永8年(1631年)に死去した後にその家督を継承して、高遠藩3万石の藩主となりました。
家光との邂逅
三代将軍・家光が自身の異母弟である正之の事を知ったのは、偶然目黒の成就院という寺に立ち寄ったことからでした。このとき家光一行は素性を伏して寺に立ち寄りましたが、寺の僧から将軍家の弟君にも関わらず、不遇な身にある正之の話を聞き、その存在を知ったと伝えられています。
その後、家光は正之と対面を果たすとその才を認めて優遇しました。寛永13年(1636年)に山形藩20万石へ、続く寛永20年(1643年)には、会津藩23万石へと加増移封を行いました。
加えて自らの臨終の際に、息子で且つ四代将軍となった家綱の後見を依頼したほどの厚い信任を寄せました。
江戸城天守を後回しへ
正之も家光の期待に応えて、優れた政治手腕を発ししました。
主な施策としましては、主君への殉死を禁じたこと、末期養子の扱いを緩和したこと、玉川上水の整備を行ったこと、などが挙げられます。
その改革は移封先となった会津でも実施されて、地域産業の発展に貢献しました。
また明暦3年(1657年)に「明暦の大火」と呼ばれる大火災で江戸城天守が焼失した後には、天守の復興よりも民の生活の安寧を優先した政策を打ち出し、以後江戸城に天守は再建されませんでした。
またこの大火災の際、城内では将軍・家綱の避難先をどこにするか議論されたと言います。このときの意見には、安全な江戸城外へ逃がれるというものも見られましたが、正之はあくまでも江戸城内での避難を進言したと伝えられています。
この理由は、「危機にあって頂点にある人物が右往左往して逃げるなどもっての外である」と言う考えからでした。
会津家訓十五箇条
家光の死に際して徳川のその後をも託された正之は、その要請に応えるものを定めました。これが1668年(寛文8年)に「会津家訓十五箇条」として会津藩に連綿と受け継がれていく事になった徳川幕府への忠誠を尽くすことを定めた家訓でした。
この家訓の第一条には「会津藩は将軍家を守護すべき存在で、藩主がそれを行わない場合、家臣は従ってはならない」と明確に謳われています。
この家訓を以後の会津藩主・藩士ともども固く守るり、幕末期に藩主となった松平容保は殊にこの家訓の実践を図り、佐幕派の中心的な藩として多くの藩が新政府に恭順していく中で最後まで幕府を守る戦いを続けました。
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