日本のダ・ヴィンチ
平賀源内(ひらがげんない)と言えば多くの日本人が「エレキテル」を連想されるほど、その機器の持つ響きが与える印象が強い人物ではないかと思います。
しかし源内はこうした機械的・技術的な方面に留まらず、講談や浄瑠璃を手掛けるなど文学にも関り多くの作品を残した、まさに日本のダ・ヴィンチとでも言うべき才人でした。ここでは源内のその多岐・多彩な足取りを少し調べて見ました。
長崎・京・大阪・江戸へ遊学
源内は享保13年(1728年)に四国の高松藩の下級武士・白石茂左衛門の三男として生を受けました。幼少の頃から才気活発だった源内は、軍記物に親しみ、俳句を嗜み、自らからくりを手掛けるなど地元で知られた存在であったと伝えられています。
そうした才から齢13にして高松藩医に師事し、医薬や儒学の教えを受けました。源内はその後宝暦2年(1752年)頃には長崎への1年にわたる遊学を行い、その地でオランダ語や西洋医学、西洋画などを学びました。
これを皮切りとして大坂・京と遊学した源内は、宝暦6年(1756年)に江戸に出てここでも医薬や漢学を治めました。
更に2度目の長崎への遊学で鉱物に関する知識を学ぶと、それを活かして伊豆にて鉱床を発見し、時の幕府の老中を務めた田沼意次の知己を得たとも言われています。
高松藩からの奉公構
源内は遊学中に病気を理由として高松藩の役を辞していましたが、宝暦9年(1759年)に再度高松藩に仕えました。
しかしその2年後の宝暦11年(1761年)に再び江戸へ赴くため、藩の役目を辞したことから奉公構を出され、以降は他に仕官が出来ない身となりました。仕官できないという事は一介の浪人になるという事ですが、こうした自由な振舞いが源内の才人たる所以と言えるものでした。
こうして江戸へと戻った源内は、湯島の地で宝暦12年(1762年)に5度目となる物産会を開き、当代きっての西洋医学者である杉田玄白らとも誼を通じたと伝えられています。
エレキテルの復元
「エレキテル」はオランダで開発された機器で、ハンドルを回し中の回転瓶を摩擦させて、静電気を発生させる装置です。
オランダでは静電気による見世物や電気ショックなどの医療器具として使われていたものでした。日本へも江戸期に伝わったとされ、1751年(宝暦元年)頃に徳川幕府に献上されたとする記録もあります。
源内は長崎を訪れていた1770年(明和7年)に壊れたエレキテルを手に入れて、7年越しとなる1776年(安永5年)に修理に成功し、不思議な機械として当時の江戸の人々の耳目を集めたと言われています。
このため源内の屋敷には高貴な身分の人々や、財を成した人々が一目見ようと押しかけ、また請われて源内自身がエレキテルを持参して大名宅へ赴くこともあったとされています。
但し、実際的な病気治療と言うよりも、物珍しさという点で注目を集めたもののようです。
文学者としての源内
源内が革新的だったのは「エレキテル」のみではありませんでした。
元々の発祥の地であった上方の言葉を使用していた浄瑠璃において、関東を舞台として江戸弁や吉原の遊郭で使われていた言葉を用いる演目を創作しました。
こうした浄瑠璃の他、戯作者としても多くの作品を手掛けて文学者としても活躍を見せました。
罪人として獄死
源内は安永8年(1779年)にある大名屋敷の修理を依頼されたと言います。
このとき酒に酔った源内は些細な勘違いから現場の大工2名を殺めてしまい、捕縛されて獄に繋がれました。
この獄中で破傷風を発病した源内は、そのまま享年52歳で死亡したと伝えられています。
源内の葬儀は生前交友のあった杉田玄白らが執り行ったとされ、その時代の蘭学者には遍く名を知られていた存在であった事が窺えます。
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